2022、クラシックに還る
written 2022/12/30
今年夏までは洋ロック、特に北欧のメロディック・ヘヴィメタルバンド、「プリティ・メイズ」と、そのヴォーカルのロニー・アトキンスのソロアルバムなどを中心に盛んに聴いていたが、8月15日、八戸イカール国際音楽祭で聴いた音楽と、そこで接することのできた演奏家たちの印象が強く作用して、改めてクラシック音楽に関心が向いた。
イカールで接した音楽は現代音楽ではなく、より一般的なクラシック音楽だった。恐ろしくマニアックで、井戸の底のように狭小な現代音楽界隈とは打って変わって、より一般的人気を持つクラシックの世界、つまり18世紀から19世紀の西欧音楽の古典作品が繰り返し演奏され愛聴される世界は、生き生きとした、輝きのある空間だった。この雰囲気は現代音楽界隈には決して無いものだ。
私は大学時代以降、徐々に20世紀以降のクラシック音楽に惹かれ、自分でも無調を基本とした曲を多く書くようになって来た。しかし最近、ただひたすら無調ばかり聴いていると、それはそれでどうも単調でモノクロームな感じがするのである。現代音楽は際限なく自由なはずなのに、様々なことを自らに禁じて、結局広がりも豊かさも欠いた退屈な私小説みたいなものに陥りがちなのではないか? そしてそれが余りにも個人的な私小説に過ぎないがために、閉鎖的で、聴衆の気を惹き付けない結果をもたらしているのではないか?
そこで最近は、無調な中にも時折調性的な楽節を織り込んで、豊かさを取り戻すような作曲を試みたいと思うようになった。
そうして、イカール国際音楽祭で出会ったクラシック音楽の世界と向き合って、その記憶に基づいた2つの作品「イカロス」「アプロディテ」を書いた。
八戸市の音楽祭にはそもそも大学時代に短期間ながらお世話になったピアノの岡田照幸先生に、数十年ぶりでお会いしに行ったのだが、その岡田先生は何と、私の新作「アプロディテ」をポーランドで初演して下さった。
さらに、大学時代の友人黒瀧浩くんにも会うため、12月初め、青森の彼のミニリサイタルにもお邪魔した。
齢53にして、昔懐かしい、青春時代に出会った人びとと数十年ぶりに邂逅し、2022年の後半はいろいろと感慨深いものがあった。
更に、今年初冬からは今度はクラシックのBOXものCDをやたらと買いあさり始めた。もともと無上に好きなモーツァルトをはじめ、サン=サーンス、ベンジャミン・ブリテン、シベリウス、ホルスト、メンデルスゾーン、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、ショパン、従来ほとんど興味を持てなかったベルリオーズやラフマニノフ、R. シュトラウスなども揃えてみた。
片っ端から聴いて、モーツァルトは私には別格なので措いておくとしても、オーソドックスな調性音楽もやはり聴いて楽しいなあ、こういう古典作品が今に至るも現代音楽なんぞより遥かに人気があって愛されるというのも、もっとも至極なところがあるなあ、とつくづく思った。
そもそもが、私がクラシック音楽を聴くようになったのは、父がCBSソニーのクラシック全集とかいう100枚くらいのレコード・セットを持っていたのを、中学・高校時代に聴き始めたからだ。
中でも気に入ったのは、小曲を除けば、ブラームスの交響曲1番と4番、ヴァイオリン協奏曲、チャイコフスキーの交響曲6番にピアノ協奏曲1番、ヴァイオリン協奏曲、ベートーヴェンの交響曲5番と7番とヴァイオリン協奏曲、ショパンのピアノ協奏曲1番、ドヴォルザークの交響曲8番、チェロ協奏曲辺りだった。
それからモーツァルトに心酔するようになり、いきなりモーツァルティアンみたいになって好きな曲はほとんどそらで歌えるほどに覚え、高校の終わり頃に急に自分でもピアノを弾くようになった頃には、今度はグレン・グールドのバッハ演奏、および、レオンハルトによるバッハの複数台のチェンバロのための協奏曲集に痺れて、大学からは自ら、ひたすらバッハばかり弾くようになったのだった。
ジャズやバルトーク、新ウィーン学派、メシアンなどの新しめの音楽にも興味を持ち、はまり、CDを収集するよういなったのも大学時代からだ。
従って、ごく一般的なクラシックファンと言えたのは中学・高校の頃なので、大学時代からは和声的にも、少なくともフォーレ並みにひねっていたり、楽譜のエクリチュールも、少なくともフーガ並みに複雑だったりしないと興味を持てないというひねくれ者になっていったので、その辺からが私が天の邪鬼な特色をしめすようになった時期である。
それが、やはり歳をとると人間は円くなるのか。私は今さらのようにオーソドックスな18世紀-19世紀のクラシック音楽をニコニコ聴いて楽しむようになり、これでかなり満ち足りているのである。
満ち足りすぎて、作曲活動を「アプロディテ」以降忘れてしまっている。本当は来年のコンサートでやる予定の曲にそろそろ取りかからなければいけないのだが・・・・・・。
前述のように、無調をベースとしつつも調性要素を入れてみる、という試みを更に発展させたいとは思っており、単純に突然19世紀クラシックみたいな楽節が挟まるだけだと何だかつぎはぎ細工めいているので、オーソドックスな調性の楽節であっても、転調しすぎとか、変拍子活用しすぎとか、リズムやメロディラインが斬新すぎとか、複調とか、そういうヘンテコなことをやってよりモダンな体裁を持たせてみようか、などと企んでいる。これが「アプロディテ」以降の私のプランだ。
が、普通のクラシック愛好家のように、唯単にCDに聴き入るだけの生活というのも、やはり魅力ではあって、もう作曲なんて余計なことはしなくていいんじゃないのか、とも思えてくる。
大学時代の思い出から、さらに中学・高校の頃に聴いたような「ふつうのクラシック」への回帰。これが今年2022年後半の私のテーマとなった。
モーツァルトを聴きながら、やっぱりモーツァルトは至高すぎる、もう他に何もいらない、このまま死んでも良い。なんて思いながら、年が明けそうだ。