他者は単に非=自己なのではない。反=自己なのだ。
何をおいても、私たちが渇望するのは他者なのだ。
防御本能とやらに根ざしている、「自己同一性」への回帰は、
絶対的に退屈だ。
他者との出会いは「できごと」となるだろう。
そこでは自己が否定され、私は転身を余儀なくされるだろう。
他者はどこへ行ったのか?
共同体、言語作用の既成の枠組み、すべてを超えた他者との遭遇はいつもたらされるのか?
written by nt, 2003/9/14
[textes/思考]
昨年5月に書いた「Riverhead Prateau」以来の、「23のピアノ前奏曲」新作を仕上げた。まだやっと通算10曲目。
今回これまでの作曲方法とちがったのは、DAWの「Logic」で作業を開始せず、「Finale」で楽譜を作りながらの作曲となったことだ。プラットフォームの変更はかなり大き ...(全部読む)
written by nt, 2013/7/29
[textes/notes]
他者は言葉を破棄したところに存在する。
ラジカルに思考し、自分自身を分析し、思考に基づいて新たなアクションをもくろむこと。
それはたぶん小ざかしくむなしいことなのだろう。
私の思考は結実した試しがなく、かえってすべてを混乱させてしまう。
思考するとはひとつのラング(言語体)の中で戯れることだろう。組み立てられた言葉には、何かの力が秘められているような幻想が伴う。
そのような空々しい遊戯を超えるには、本当はコミュニケーションが必要なのに違いない。
他者は言葉を破棄したところに存在する。
written by nt, 2002/2/2
[textes/思考]