死と転生
written 2012/12/23
先日「遺作」として「Context of Water」を公開したが、どうやらまだ死んでないので、生きていて気が向いたときは、ぼちぼち作曲も続けていくしかないかなと思っている。「書かずに生きていけない」なんて気取るような資質は持たないが、「生きているのはひまつぶし」(深沢七郎)であれば、やはり「音楽することもひまつぶし」だと言うことは出来よう。
昨年「Genesis of Time」を前田ただしさんが演奏して下さったのは画期的な出来事だったが、前田さんは今年も4月に私のヴァイオリン独奏曲「Seiren」を、エクアドル・キトのリサイタルで演奏して下さった(記事)。さらに12月には、ダニエーレ・コロンボさんが私のヴァイオリン独奏曲3曲「Draco」「Seiren」「Cygnus」を、イタリア・ナポリでのコンサートで演奏して下さった。
ヴァイオリン独奏曲を書くのは全然得意ではない(自分で弾いたことがないから構造がよくわかってない)にも関わらず、はるか遠い国でこれらが演奏されたことは、感動的で、感慨深く、感謝の念に堪えない。
自分のクラシック(現代音楽)系の曲が、いざ実演されるのを聴いてみると、つくづく、コンピュータの音源による演奏は子供だましのイミテーションに過ぎないなという感が強まる。アコースティック楽器のための曲であれば、実際にその楽器の達人が演奏するのに越したことはない。というか、「実演される」その瞬間に音楽は生まれるのであって、私がコンピュータでシミュレーションし、楽譜を作ったその時点では、まだ「ほんとうの音楽」は始まっていないのではないかと思う。
ということは、アマチュアDTMerにすぎない私は、常に「音楽以前」の場所にとどまっていたのであり、「音楽」を生み出すのに加担したいのであれば、是非誰かに曲を演奏してもらわなければならない。ピアノもまともに弾けない私は、常に誰か「他者」との共同作業によってしか、「音楽」を生み出せないわけだ。音楽は、単独者としての「私」の内部に閉じ込められては存在しない。他者と結びつくその輝かしい「場所」にのみ、存在するのだ。音楽は、私と他者との「あいだ」に生成するなにものかだ。
そういうわけで、今後はクラシック/現代音楽分野では、ごく小編成の室内楽や各楽器の独奏曲にしぼって、演奏されることを念頭に作りたいと思う。まあ、書いても演奏されない可能性の方が圧倒的に高いのだが、そこは無名で無能なアマチュアとして覚悟しなければならない。
インターネットという仮想的・虚構的な世界の中で、「nt」という名前は、地味な一個の符号に過ぎなかった。身体なき「ntの音楽」は仮想空間での一抹の夢にすぎず、それは何のためらいもなく死んでよいものだし、また、死ぬべきだったのである。
その仮想的空間の中から、「リアル」の方に飛び出してくるものだけが、「音楽」の名に値する。
だからこの意味で、虚構としての「nt」は「遺作」と共に死に、他者の演奏によって「音楽」の出現を待つひとつの身体が、それだけが、生を生きなければならないのだ。
かつて私は「書くことは生きるとは別の仕方で存在を始めることだ。」と書いた。しかしこれは、リアルな生の諸相からは隔絶しながら、インターネット空間を漂流することを正当化しようとした弁明にすぎなかったかもしれない。ネットは結局空虚な場所だった。われわれはむしろ、身体として存在しなければならない。
身体と遊離した「魂」は存在しない。ネットという幻想はまやかしだ。私はネットに疲れたのだ。
一方で、DTMerとしての「作品」となると、エレクトロニクスを駆使した作品の系列になるだろう。
オーケストラを書けない私としては、縦横無尽にサウンドを組み合わせたくなったら、エレクトロニクスを使うほかない。
ただし私はMixとかサウンドメイキングは苦手でヘボなので、あくまでも「遅れてきた」オヤジに過ぎない。この路線ではしょせん、たいした結果を残せないのはわかっている。私に出来ることは、現代音楽の感覚を活用してポピュラーミュージックの水平に多少の波風を立たせてやることぐらいだ。ネットに漂う一粒のスパイス/毒。わずかながらでも、私の奇妙な音楽に興味をおぼえた方々が、音楽観の幅を広げるきっかけになるのであれば、よしとするしかない。
ポピュラー的/エレクトロニクス路線は、一種の余技として、依然「nt」という符号のもとに虚構空間を漂いつづけるのだろう。それは長い夜の長い夢であるが、やがて必ず終わることがわかっている。
虚構の符号から「身体」への移行。私の「遺作」が意味したものは、これだったのだろう。