プロとアマ
written 2022/8/21
先日、2022年8月14日(日)から16日(火)にかけて、青森県八戸市へ旅行に行ってきた。メインの目的は、8/13-8/19と7日間開催される「八戸イカール国際音楽祭2022 Hachinohe ika-r International Music Festival」のうち、15日夜のコンサートを参観することだったが、この日を選んだのは、難曲すぎてなかなか生演奏を聴くことの出来ないシマノフスキのヴァイオリンとピアノのための「神話」が演奏されるからだった。
そして、私が大学時代一時お世話になった岡田照幸先生に30年ぶりにお会いすることを楽しみにしていた。私は函館教育大学の美術科専攻だったくせに、ロクに専門の研究をせず、音楽棟にあるピアノ練習室(小学校の教員はピアノを弾けないとならなかったから、一般学生向けに何室も解放されていた)に入り浸り、ピアノでバッハなどを弾きまくっていた。それを廊下で聴いた、当時ピアノ科の教官だった岡田照幸先生が気にかけてくださり、何と無料で、音楽科の学生たちと共にレッスンを受けさせてくださったのだ。が、実際に間近で聴いてみると私のピアノがあまりにも下手クソだったので、先生はがっかりされたようだった。
当時から所属不明のコウモリ的な人間だった私は、酷いひねくれ者でもあり、もったいなくもやがて自らレッスンを去ってしまった。岡田先生もその後退官されたと聞いた。
岡田先生のピアノを聴き、主旋律を「鷲づかみにするような」強烈な浮き立たせ方をされているのを、凄いな、と思っていたことは覚えている。
先生は当時から青森のラジオ局で「岡田照幸の タッチはピアニッシモ」なる番組を受け持っていて、これは現在も続いているという、長寿番組だそうだ。
今回の音楽祭では、プログラムには名前が記されていないが、総合的なプロデュースをされていて、最初私はよく知らなかったのだが、これは、国内の(主に東京などで音大の教授をしていたり、CDを出しているような)一流の音楽家たちや、ポーランドなどの高名な演奏家たちを多数招いた、非常に豪華な、凄い音楽祭だった。
15日の夜に拝聴した演奏はどれも、さすがに一流の素晴らしいものだったが、とりわけ、お目当てのシマノフスキ「神話」は小林恵美さんのヴァイオリン、上田晴子さんのピアノが卓越していて、ハイレベルな技術を要求するこの曲を見事に支配し、表情豊かで奥行きのある音楽を実現され、私はその技の見事さにいたく感動した。
その晩、岡田先生にお招き頂いて、当夜の音楽家たちの「打ち上げ」に参加する幸運を得た。第一線のプロ・ミュージシャンのお話を間近で聞くことができ、これは貴重な体験だったと思う。
その後、帰途(16日は大雨で道内の特急等が前面運休となり、函館で予定外の1泊を追加することになった)や自宅に着いてからも、音楽のホンモノの「プロ」ということをずっと頭の中で考えていた。
私が前述のように、「美術科のくせに」ピアノ練習室に入り浸り、ときには1日8時間も連続して弾きまくっていたのは、もちろん、いかなるレベルにおいてもピアノの「演奏家」を目指したわけではなかった。ただ単に、自分の身体の運動を通して「音楽」なるものが生成してくることの、軌跡のような輝きを体験することが、面白くてたまらなかったのである。演奏が上達すればもっと楽しいのかもしれないが、私は次第に「音楽を自作する」ことの面白さに傾いていき、大学卒業後はシーケンサーを用いたいわゆるDTMの方に熱中することになる。これなら演奏はどんなに難しくてもコンピュータが完璧に実演してくれる。
DTM(MIDI打ち込み)の場合は、自分の身体運動が直接音楽を左右することはなく、その音楽活動には、やはり「触覚」が欠けている。クラシック音楽の演奏では重要な、「触覚」である。音楽に限らず、コンピュータやスマホでインターネットをするような場合でも、インターフェイスに触れるとは言え、概念と結び付いたモノそのものに直接手が触れる「触覚」が欠けてしまうところが、人間の体験として大切な何かを忘れさせてしまう面もあると思っている。
そもそも音楽科でなかった私は「作曲」においても、いかなるバックボーンをも持たない「アマチュア」であって、ずっと「私はアマチュアです」とネットでも自称してきた。そして、アマチュアであることをいいことに、世間での「受け」を大して気にすることなく、ジャンルのよくわからない「変な」曲を好き勝手に書いてきた。
そんなへっぽこアマチュアが作曲した曲が、たとえば、2018年にはアメリカの素晴らしいキャリアを持つ、高名な、卓越したピアニストであるヴィッキー・レイさんに「たまたま」発見され、コンサートで何度も演奏していただいたようなことは、本当に、信じられないような過分な幸運であった。
2018年4月3日、ロサンゼルスでのコンサートにおける、ヴィッキー・レイさんによる「コンチェルティーノ」初演時の動画
近年になってクラシックのプロフェッショナルな音楽家たちとも幾らか交流する機会に恵まれ、今回もそうだが、こういう方々の「プロ性」をまざまざと感じるとともに、自分のような中途半端な「アマ性」との距離の遠大さを実感せざるを得ない。チャールズ・アイヴズのオーケストレーション等の書法が「やっぱりアマチュアっぽい」と言われるのと同じような不格好さが、もっとあからさまに強く浮き出しているのが、自分の音楽の「せいぜいの」レベルなのではないか。アイヴズの場合は、稚拙さの中にも先駆的な面白さが楽曲にあったから、音楽史に名前が残ったわけだが。
アマチュアだから好き勝手できるが、しかし「自分はアマチュアだから」ということに甘えてしまう部分があるならば、やはりその音楽には救いがたい「甘さ」が忍び込んできてしまう。
今回、イカール国際音楽祭で一流のプロ音楽家たちの演奏と、「打ち上げ」での「生身の姿」に触れることを通して、おそらく「完璧」をめざして揺るぎない厳しさで甚大な努力を重ねて来たその人生の「強さ」を思うと、畏怖心をあおられるようでもあり、恥ずかしいようでもあって、「もっと厳しく追及しなければ、音楽やっても意味がない」と振り返ることになった。
「音楽で生きている」方々の世界は、そんなふうに凄いのである。