item メルヴィル『ビリー・バッド』

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written 2007/1/21

ハーマン・メルヴィルの『ビリー・バッド』(1891)は、この作家最後の、物語としてはできあがっていはいるが原稿としては未完となったまま遺された小説である。
メルヴィルと言えばあの不条理な『バートルビー』も思い出されるが、この『ビリー・バッド』もまた、不思議な味わいのある、魅力的な作品だ。

この小説をオペラ化した、ベンジャミン・ブリテンの『歌劇ビリー・バッド』のCDを買ったので(日本語字幕付きのDVDは現在、出ていないようだ)、早速今日聴いてみた。
ブリテンの音楽はさすがにすばらしいものだと思う(とはいえ、まだ1回しか聴いていないのだが)、しかし、問題は劇の内容である。
この小説のオペラ化に当たって、あのE.M.フォースターも脚本作成に参加しているのだが、メルヴィルのこの異様な小説の解釈については、どうも私には疑問なのだ。
ブリテンの歌劇では、あまりにもヒューマニスティクな解釈に傾きすぎていると思う。
それはたとえば、小説とは違う箇所に現れている。
純真無垢な水夫ビリー・バッドが、悪意をもち虚偽の告発をする船乗りクラッガートに問いつめられた際、持病の吃音のため反論もできずつい腕力でクラッガートを倒してしまう。クラッガートが死んだため、殺害者となったビリーは軍法会議にかけられる。ここで理知の人、ヴィア艦長は原作では、秩序を重んじる立場を選択し、幹部たちの反対を押し切ってビリーの死刑を宣告する。
この箇所が歌劇では、幹部たちが死刑を要求しヴィア艦長はできるだけビリーを助けようと努力することになっている。
さらにヴィア艦長はビリーの死刑後、何年もたってからエピローグにおいて「なんということをしてしまったのだ」と後悔の念にとらわれているらしい。が、原作では、ヴィアは苦悩しつつも後悔はしないし、戦いのさなかで死んでしまうのだ。

最も印象が違うのは死刑の場面で、ブリテンは死刑直後に甲板上の群衆(水夫たち)の憤った唸り声をことさらに強調し、そこが音楽的クライマックスとなっているようだ。
私は研究者ではないし、異端の解釈になるかもしれないが、原作を読んだ私の印象では、水夫たちの憤りの唸りはちょっとした余波にすぎない。力点はあくまでもビリーの死の瞬間の描写にあると思う。

不条理な運命によって死刑に処されるビリー・バッドはまさに無垢の存在なのだが、彼は死に直面してなお、死刑を宣告したヴィア艦長を祝福する。その祝福の言葉を、水夫たちも思わず復唱することで、まるでこの場面は崇高な祝典のようなものになり、光り輝きながら、ビリー・バッドは幸福で美しい死を遂げる。そしてその瞬間、船は「荘厳に輝いていた」(坂下昇訳、岩波文庫)。
この非常に美しい場面にはヒューマニズムとは遠くはなれた感触がある。
ビリー・バッドはこの死において、悲劇の主人公ではなく、その死は忌まわしいものではない。ビリーの死は全員に賛美されながら、神聖な儀式となり、比類なくうつくしい「成就」と化すのである。
そして現世における称揚はあくまでも理知の人、ヴィアに向けられる。

あの不条理な『バートルビー』を書いたこの作家は、このように不思議な「至福の死刑」をえがきだしたのだ。

この謎に満ちた崇高な場面がクライマックスにある以上、ブリテンの脚本に加えられたようなビリーのモノローグなども、完全に不要なものだと思う。
・・・しかし、私の文学観とブリテンのそれが食い違っていても何の不思議もないだろう。
私のとらえた異様なメルヴィル像とは違う次元で、ヒューマニスティックなオペラが書かれた。私はその音楽をも楽しむことができるだろう。

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