記号作用の音楽
written 2007/1/21
Pulse第2楽章を書いているところだ。
第1楽章を書き上げた後失望したのは、そこでのシンセ音(およびサンプリング音)が、記号としてしか存在していないように見えたからだ。
J-POPなどの世界で多用されるシンセ音とは、何らかの雰囲気・気分・スタイル・イメージ・言葉を喚起するための記号 signesである。POPにおける記号とは、あらかじめイメージとして規格化された意味内容を言表するための装置でしかない。
これらの装置は、結局「音楽作品」を構築しているのではなくて、実は文化のコードを構築しているだけなのだ。
私は自分の音楽に記号作用を求めていない。記号を超えたものとしての、純粋芸術としての音楽が、私の最終目標だ。
Pulse第1楽章で、私はシンセ音を「控えめに」「反復を忌避しつつ」使用するよう注意した。にもかかわらず、やはり楽曲の中でシンセ音は記号として作用してしまった。
だからシンセ音を使用するべきではないのか?
しかしトゥーランガリラ交響曲を聴きながら、「メシアンはシンセサイザーがほしかったのではないか?」という疑問を抱き、その発想および、みずからJ-POPなどをしばし楽しんだ経験から、Bird's FlyおよびPulseという実験の場を設定したのだった。
記号の体系としてのサウンドなるものが、現代の音楽シーンにおいて強力な制度(つまり権力)維持装置として支配しているのは事実である。
サウンドを超越した純粋芸術として、私はJ.S.バッハを、彼のフーガを称揚してきた。異なる楽器編成においても音じたいの価値をかえることのないその対位法芸術を、私は愛用してきたのだった。
ところが、実はサウンド=音響じたいは、音楽そのものと切り離すわけにはいかず、バッハのフーガにしてもベタ打ちMIDIより、優れた演奏と優れた楽器と優れた録音技術に恵まれたときに最もすばらしいという事実を、否定する訳にはいかない。
有効な戦略は、記号を記号化する記号作用の産出、体系の解体、ということになるだろうが、これはもちろん容易なことではない。
どのように解体するのか? これは高度な知的冒険となるだろう。・・・