textes / 思考
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- 中間言語としてのWeb
2004/7/17
すでにブログ・掲示板・チャット・メールといった言語の流通領域は、エクリチュールとしての「HTML」も「作品」も凌駕しているのかもしれない。
言語をとりあえずパロール(話される言葉)とエクリチュール(書かれる言葉)に分けるという、ソシュールによるふるいモデル... - 記号の国
2003/9/19
「書くこと」はついに、記号の社会的連鎖の網を突破できるだろうか。
私たちは 記号の国 に住んでいる。 言説 は日常のあらゆる箇所を満たしており、 記号を介さず「もの自体」に直接触... - 作品
2003/9/16
私は何かのために書くのではない。
作品とは未知の身体であり、書くこととは身体への渇望のはけ口である。 何か実用的な目的とか、ロマンティックな目的で書くな... - 他者との出会い
2003/9/14
他者は単に非=自己なのではない。反=自己なのだ。
何をおいても、私たちが渇望するのは他者なのだ。 防御本能とやらに根ざしている、「自己同一性」への回帰は、 絶対的... - メタモルフォーゼ
2003/9/14
絶え間ない転身。自己否定。
たぶん、私たちがほこるべき自己などどこにも存在しない。 自己同一性なる観念そのものが幻想であり、1個の存在として現... - フーガを書く
2003/8/22
そこに現れるのは「できごと」だろう。
フーガは自らを生成する。私の意図を超えたところで、次々と音組織が形成されていく。 フーガを書くということには、エクリチュ... - 文学について
2002/3/12
文学という言葉が指し示しているのは、文化現象の核心をなしている領域で、それは恐らく、ひとつの文化の心理状況あるいは構造の... - コミュニケーション、他者、理解
2002/3/1
共同体の内部において、共同体の言語(ラング)を用い、コミュニケーションをはかること、これはとても簡単だ。だがそれは、本当... - 対位法について
2002/2/14
西洋の近代音楽史において、対位法が重要視されたのは、特殊な状況下においてである。 ひとつは、近代の黎明期としての、... - 批評について
2002/2/5
批評のコトバは無責任である。 それは自分自身のエクリチュールの構造を隠蔽しながら、他者の作品、あるいは作品のシーニュ...