対位法について
... 思考
written 2002/2/14 [ updated 2006/5/28 ]
西洋の近代音楽史において、対位法が重要視されたのは、特殊な状況下においてである。
ひとつは、近代の黎明期としての、ほぼ16世紀から18世紀に当たる時期であるが、対位法は、まずは音組織を構造として組み立てるための手段であったろう。そこには音の数理的な解析を通して、知への意志がこめられていたかもしれない。
しかし、時代が意味の追求を求めたとき、対位法は影をひそめていた。
20世紀の前半、現代の始まりの時期に意味が解体されあらたな音組織が渇望されると、対位法が復活した。たとえば新ウィーン楽派や新古典主義だ。
対位法それ自体は意味を産出しない。それは記号ではなく、逆に意味作用とは対立する意識的なエクリチュールである。
それぞれの線の出だしの位置は、設計者の計算により、整然と配置される。
まず、ひとつの線に対し、別の線が微妙にずれ込みながら別の曲線を描き出す。
この微妙なずれが、その曲全体を差異の構造体として組み立て直す。
複数の視点を多様に組み合わせたこの音楽の存在感は、小説で言えば、登場人物たちが独立した視点を持つことによって、作者や読者が持つ単一の世界観(モノローグ的世界)を超えた重層的な作品世界、たとえばドストエフスキーの長編小説のような構造体に比較することができるだろう。
音楽の根幹がSongであるならば、対位法はそれをそのまま表出するものではない。
対位法はSongを分析し、解体し、新しい視点から再構成を図る。歌を歌わせながら、それとは別の方向から差異を持ち込み、ときとしてSongどうしを反発させあいさえするのだ。
そのように緻密に組み立てられた対位法音楽とは「メタ=Song」であるということが出来るだろう。
深層の対位法というものも、たしかに存在する。それはエクリチュールの内部構造が、差異を抱えながらテクストの主体に肉薄する場所に現れる。
こちらは一種の劇空間に現出するだろう。たとえばモーツァルトの歌劇に。ストラヴィンスキーのバレエに。
私はフーガを書き、対位法を応用した曲を書く。そこはサウンドが偶像視される場所からは遠く離れたところだ。
しかしまだまだ、この領域を踏破することはできない。
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