フーガを書く
... 思考
written 2003/8/22 [ updated 2006/5/27 ]
そこに現れるのは「できごと」だろう。
フーガは自らを生成する。私の意図を超えたところで、次々と音組織が形成されていく。 フーガを書くということには、エクリチュールそれ自体の快楽があるに違いない。
つまり、フーガはフーガとして企図されたその瞬間から、自らの身体を構築し始める。
私はそれに対抗する。音楽の主導権を必死で取り返し、私はより自由であろうとする。
このふたつの勢力が火花を散らすところで、何かあたらしいことが始まろうとしている。
フーガ自体のエクリチュールは意味作用を超えた場所に屹立する。
対立しあう線と線が過剰な意味作用を削ぎ落とし、人を絶えず 覚醒させるため、 フーガは1個の独白ではなくなってしまう。
だがその覚醒のさなかにも、人はなにかの表出、なにかの意味作用を決死の覚悟で見出そうとするので、感覚や思考は極限まで研ぎ澄まされていくことになる。
そこに現れるのは「できごと」だろう。
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