知的なものと民衆的なもの
written 2012/12/9
ロックをはじめ、ハウスもテクノもヒップホップも、Popularミュージック全般が、私には20世紀以降の欧米(を発祥とする)文化圏の民族音楽だと私は思っている。厳密に言うと民族ではなく民俗の方だが。
世界各地の伝承的・古典的な民族音楽(インド音楽やアフリカ音楽、ガムラン、日本の雅楽・謡曲・虚無僧尺八などなど)を聴くのは、もとから好きだ。
そこには、他文化の民衆に寄り添った多様で真実な音楽の姿がある。クラシック音楽(現代音楽含む)は19世紀ヨーロッパ型知的ブルジョワ「階級」の価値世界であって、これは現在の状況も変わらない。クラシック音楽家の中には、民衆の文化、つまりポピュラーミュージックを侮蔑し、西洋クラシックこそが第1級の音楽であって他はゴミである、と考えたがるどうしようもないスノビズムが、往々にして残っている。
確かに、知的操作という点では、ポピュラーミュージック全般は「甘い」と言わざるを得ないし、たとえば安易に反復されるビートやリズムパターンについても、「これは何か? これはどのようにあるのか?」と知的に問いかけを深めていけば、ポピュラーミュージックを支える「ビート」の素朴な反復は不可能になり、クラシック系現代音楽(Contemporary classical)に向かっていくことになるだろう。そうすると音楽は庶民の享楽からは遠ざかって行ってしまう。
しかし、「ほんとうの音楽」は「知」の管轄下にあるのか? そうでないのか? 最高の音楽は庶民のもとにあるのか、ごく一部の知的エリートの手元にしかないのか?
こう問いかけ続け、私は何の答えも得ることはなかった。
しかし20世紀は、「知」がそれ自身に改めて疑いをはさんだ世紀でもあった。
フーコーが考察したように、文化の中にたちあらわれる「知」はただちに「力(権力)」と結びつく。「知」は自然的なるもの・人間的なるものを管理し、統括しようとする。「知」が何らかの目的と結びつく限り、それは「操作」=テクノロジーを呼び起こし、ときとして暴力となる。「知」が縦横にそのパワーを発揮するのは、まさに、何かを支配しようとするときだ。
これはアイロニーとして言うのだが、そう考えてみると、「知」の最高形態を代表するのは国家の内外へと向かう軍事力である。内に向かっては警察によって法という名の「知」= 「権力」を民衆に強制し、従わせる。外に向かっては、武力を誇示して権力の身体=領土を守り、ときとして外部を攻め滅ぼそうとする。
ひねくれた言い方ではあるが、最高の技量をもった芸術家はその権威と他者を蹴落とす競争力において、最高の軍事力を持った専制国家に似ている。
シュトックハウゼン、ブーレーズ、ラッヘンマンあたりやその後継者たちは、理知的に音を解剖し、再構築しようというその操作の技量によって、「知的な音楽」の「前衛」(先鋒)であると言えそうだ。
私の音楽はあくまでも主観的な側面が強いため、それらとは別な位置にあって、庶民的な視線に近いと思う。ただしほんとうの庶民になりきれない歪んだ自尊心のおかげで、「知」を手放して一般的なポピュラーミュージックまでも降りていこうとしない。何度も言うように、私は宙ぶらりんなのだ。
知的操作を用いながら、直接的に情感や生理に訴えかける力を持つヤニス・クセナキスの音楽が、私の憧れではある。だがポピュラーミュージック=時代の民俗音楽にクセナキス的なものが忍び入るまでに、まだ数百年はかかりそうだ。
民俗的なものに対する憧れは、私の音楽の中でもポピュラーミュージック系の諸作品によくあらわれていると思うが、いつもどこかでひねくれてやろうとするので、せいぜいムラのアウトサイダーのような、ヘンクツなクソオヤジみたいな地位しか世間は用意してくれない。
こないだの「MATARAJIN」は私の民族音楽の趣味をごちゃまぜに出した楽曲で、何となく民謡ふうながら、どこの国籍のものやらさっぱりわからない旋律だが、なんとなく1970年代以降のサイケなポピュラーミュージックのような雰囲気を維持している。
しかし、これは結局「フュージョン」でしかない。ただ、私はその意匠/レトリックを何かのために「利用」したわけではない、という点に、なんとか救いを見いだせるかもしれない。
古いわらべ歌や民謡に、西洋的な和声付けをしてポップス的にしてしまった音楽をよく見かけるが、あれは本当によくない。嘘である。「とおりゃんせ」「かごめ」には和声をつけてはいけない。わらべ歌なら、ピッチのほんの少しずつ狂った斉唱で聴くのが一番だ。民謡など伝承的な歌なら、どこかのおばあちゃんにでも歌ってもらうのが一番いい。
アレンジという装飾は「知」が音楽を支配しようとする手管のひとつである。そうすることで、庶民たちのうたは権力に回収されてしまう。実はハンガリーの庶民の歌を収集したバルトークの音楽にさえ、そのような「知的支配」のそぶりが見えてしまう瞬間もある。
篳篥(ひちりき)や尺八や二胡でポピュラーソングを演奏する、なんていうのも気持ち悪くて仕方がない。そういうので「ふるさと」を演奏とか、本当に「いかにも」なことはいい加減やめてほしい。
「知」は「権力」とは隔絶したところでいとなむことができないのだろうか? それを問おうとしたドゥルーズなども、結局は救われることがなかったような気がするのだ。
「操作」「目的」とは離れたところで。
ジャン=リュック・ナンシーあたりもそんなスローガンを提案しているが、その具体的な姿を、まだ誰も発見していないのではないか。
自らのしるしとしての「知」を捨てるわけにはいかない人類の文化は、どのように変容しうるのだろう。
庶民が「知」の対蹠点である「衆愚」として、政治やマスメディアにうまく利用される。相変わらずそんな構図が見え透いていて、今度の選挙結果もだいたい予想がつき、むなしいばかりだ。
音楽も、音楽以外の世界でも、おなじ解き得ない問題のために混乱してしまう。
だから、音楽も、あらゆる行為、あらゆる事象と共に、「無に帰す」以外にないのではないだろうか?
レヴィ=ストロースが取材したアメリカの「未開社会」の神話では、「文明以前」と「文明の発祥」という境界線が語られ続けていた。いまや「文明」といえば、欧米型文明しか指さないようになってしまった事にも、問題がありそうなのだが・・・。