ゆっくりと、水のように静かさで
written 2012/10/30
いま非常にゆっくりと、毎日ほんの少しずつ書いている曲は、現代音楽スタイルの室内楽曲である。
9重奏。私にしては大きめの編成のアンサンブル作品で、指揮者も必要だろうから、生身で演奏するなら合計10名の音楽家を要する。こんな編成の曲を書いても永遠に誰にも演奏してもらえないだろう。
使用楽器は、piano, violin, viola, violoncello, flute, oboe, clarinet, trumpet, trombone 各1。この編成は書いていてやはりコントラバスやファゴット、第2ヴァイオリン、打楽器類も欲しくなってきたが、パレットを充実させようとすると結局オーケストラ曲になってしまう。少ない色数で豊かな絵を描こうとするのが室内楽だろう。
はじめからいつも(3−4分)よりは長めの曲にするつもりだったし、最近作曲に対する集中力もまるで持続しないので、今回はやたらに時間をかけ、超スローペースで作っている。ひっきりなしに前のところに戻っては補筆訂正を行い、甘ったれた音型を崩したり、不協和音で紛糾させたり、いろいろいじっているので、なかなか先に進まない。
もう少しで完成するかもしれないが、その後楽譜を整形するという面倒な作業が残っている。
能力も素質もないド素人の私であってみれば、実はこういうスローペースな創作活動が、そもそも望ましかったのかもしれない。プラモデルとか「趣味」の作業というのは、のんびりやるものではないか。
やたらに焦って行動し、エネルギーを消耗してしまうのは単に私がそういう性格だからなのだ。前方の景色を見渡し、見通しを立てて、可能な限り効率よく仕事をする、という態度は、事務仕事においてはおそらく良いことかもしれないが、その分、うっかりミスも多い。おまけに、のんびりしている他人を見るとイライラしてくるのも角が立つし、始終時間に追われストレスばかり溜まり、疲れる。
少年期から青年期のはじめにかけて、時間のことなど気にしてはいなかった。
20代、就職して特に結婚して以来、「時間」を大切なものとして絶え間なく意識するようになった。
30歳前後には、曲を書き始めると、集中して一気に最後まで突っ走らずにはいられなかった。最近になって、そんな集中力も失ったし、アマチュアの「音楽活動」にそんなにムキになっても結局意味はないのだ、無意味な営為を無意味に続け、いたずらに生きているだけなのだ、といった諦観も身につけたので、もっと「のんびり」書くことが可能になってきたのかもしれない。
そもそも「急ぐ」のは、自意識と、周囲の「世界」ゲシュタルトとのあいだの隔たりを埋めるため、作品を仕上げてネットで人々と共有することで、なんとか溝を埋めてやりたいと願ったからだったかもしれない。しかし、本当の溝はそうそう埋まるわけがないし、隔たりは隔たりとして、私の身体が火葬場で焼かれるその瞬間まで消えはしないよと気づいた。
以前はそんなに見ていなかった映画を、夏頃からDVDでしょっちゅう見るようになった。これもやたら「時間がもったいない」という意識にさいなまれていた過去の私には考えられないことだ。
それに、最近は仏教や深沢七郎の本を読み、眼前のさまざまの事象や自己の欲望に拘泥しない生き方に、憧れるようになった。あいかわらず自分はどこかで「急いでいる」ところもあるが、もっと泰然とした時間の過ごし方のほうが望ましいということに、ようやく傾き始めたかもしれない。
急ぐことも、時間も、欲望も、目標も、意図も、すべては結局無常で虚しいのであれば、強迫的な意識にとらわれず飄々と過ごした方が良い。いずれにしても自分の音楽は無意味で無用のものだから、作るにしても淡々としていればいいのだ。他人の受け止め方についても、できればいちいち動揺せずにありたい(なかなかそうはいかないけれど)。
移りゆき、動き続けながらも、全体としては静けさに満ちた「水」の光景は、何やら「無意味さの静寂」といったイメージとして、私には心地よい。
今書いている曲のタイトルは「Water Contexts」、水の文脈である。完成したら動画を作ろうかと思っている。そこには、曲とは直接関係のない、詩のようなキャプションをつけるかもしれない。
今のところ、たぶんそれはこんな言葉だ。
裏返った声の 人びとよ
雨の日の沈黙を集め
言語の高架橋に
流せ
跳梁する強迫観念に
支配される文明の
コンテクストに人はぶら下がっている
したがって太陽は
鳥を待つ
水について知るためには
水の文脈をとらえなくてはならない
流れおちる想像力の雫を追って
表皮を突き抜ければ
あまたの苦しみを捨て
間近い死に出会えるだろうか
私たちの身体のほとんどは水でできており
人間の正体は
水
である。
すべての意識は不要である
静かさよ!
幻影の余韻をふりはらい
やがて 水が
世界のすべてを吞み尽くすだろう
水は無である
Everyone having falsetto,
Let's gather silence in rainy days
and pour on the bridge
of the language
People are hanging from
contexts of civilization under the rule by
running obsessions.
Therefore
The sun is waiting for
birds
For knowing about water,
we need to get contexts of water
When we chase drops of imagination running down,
and penetrate the epidermis,
can we dump all pains
and meet near death ?
Our bodies almost constitute of water
Our true character is
WATER
We never need consciousness
Silence !
By and by water will shake free from
lingerer of illusions,
and gulp down
the whole world
Water is equal to "nothing"
― もっと適切な英訳をして下さる方を募集中です(笑) ―