タンゴ、聖なる通俗性
written 2011/11/30
タンゴを書いている。
10年くらい前だったか、確かヨーヨー・マのCDをきっかけにアストル・ピアソラが大ブームになり、私のネット上の知人も幾人かは熱狂していたようだったが、自分自身は「いいな」とは思っても、さほど熱中させられはしなかった。
だからピアソラもタンゴも、現在でも私の関心の中心近くにはいない。しかし先日ふと、ネット上でタンゴ風の音楽を聴いたとき、その「大衆性」の雰囲気に憧憬の念をかきたてられ、思いつきでタンゴみたいなものを自分でも作ることにした。
ピアソラの音楽はタンゴといっても、現代音楽ふうの鋭い響きまで取り入れ、高度に芸術的な作品となっているが、私がめざしたのは「ピアソラ的なもの」ではなく、タンゴ音楽一般につきもののある種のムードや通俗性である。
ユーロビートを聴いても強く感じることだが、ダンス向けに実用化された音楽においては、旋律や和声の複雑さ・新奇さは避けられる。むしろ容易に展開が予想できて、かつ、どこかで聴いたことのあるような楽想であったほうが、ダンスの邪魔にならない。踊っている最中に大脳の知的機能をフルに稼働させることはできないからだ。
一般的なタンゴの旋律や和声もそのようにわかりやすく出来ている。短調の感傷的な、メロメロにセンチメンタルな楽節が、強靱なリズムに乗っかっている。これとバンドネオンの音色が組み合わされることにより、酒場とかどこか(さほど富裕でない層の)街角の音楽というイメージに結びつく。
男女一組でおこなわれるタンゴのダンスは、明らかに性的な表現となっているが、半面、彼らの服装は背広やドレスであり、顔は始終無表情で通される。これはヨーロッパ化されたときに出来たダンスなのか、そもそもアルゼンチンで発祥した際のスタイルなのか知らないが、無表情と結びつくことで性的動作は儀式化される。儀式化、すなわち仮死化することで、それは欲動そのものがもつ逸脱性・異常性を去勢し、「ほの暗い欲望(情熱)をたずさえた大人の、性的な遊戯としての生/社会」といった「場」のイメージに落ち着く。
ブエノスアイレスでの発祥の事情については何も知らないけれども、とりあえず現在私たちが抱いている「タンゴ」イメージは、このような記号表象として経済的に流通しているものと考えられる。
タンゴ音楽特有の、強拍が強烈にアクセントづけられたリズムの反復は、たぶん、性の暴力性とパッションといった「意味」に結びついている。しかしこの暴力性は社会的に隠匿されなければならないから、徹底的な無表情の仮面を必要とし、音楽的には、性愛をめぐる人間関係のハードなドラマを、酒に酔ってゆるさを帯びた、哀愁ただよう歌謡へとすりかえてしまう。そして哀感は「大人の男女の人生の切なさ」として記号化され、さびしげな背中を向けて酒を飲む人びとといった映像にも結びつく。
こうした通俗性、「大衆性」を、スノッブな純粋芸術家や鑑賞者は受け付けないだろう。
通俗的であるということは、「わかりやすく」あるために、旋律や和声等、音を利用することに関する批判的な知を抑制するということだ。情緒なら情緒で、それを一面的なものとして限定し、複雑なプロセスや深層の意味などは捨象する。もちろん、主な感情に相反するようなアンビバレンツや疑念は無かったことにされる。そのうえで、人びとがたやすくわかるように、ステレオタイプを利用して諸要素を取捨選択・配置しなおす。これが芸術における通俗性の特徴である。一方、通俗的な作品だけで満足できる心境というのは、よく訓練された知的・感覚的な鋭さを動員するまでもなく、既存のイメージを参照するだけで楽々と(社会的経済的に価値があるとされる)Messageを取得でき、かつ、その内容を自己の世界観という秩序の系の中へ容易に組み入れることができる状態を言う。
批判性を徹底すれば現代芸術・現代音楽に行き着くが、タンゴは一般的には逆に、イメージ(すなわち音楽「外」のもの)の鮮明化に向かっているように見える(ちなみにピアソラは、さまざまな方向からタンゴを破壊しながらも、全体的イメージの面では保守的な傾向もあり、この矛盾はピアソラ・ミュージックという自同性がもつ振幅として、芸術批評的観点から解釈できる。しかしピアソラについてここで詳しく考察するつもりはない)。
私がタンゴに触発されて抱いた憧憬は、いわば「彼方の大衆」に向けたものだった。
互いに孤立した大人として異性と交わりあい、哀愁やざわめきのなかで酒と音楽に浸っている市井の人びとというイメージ。人びとは、鈍重な意識をかかえぐずついている私からはずっと遠い場所に行き、そこで集い、語り合っている。私は彼らの中に混じることができない。トニオ・クレーゲルが「ふつうの人びと」に対して抱く憧憬や羨望、劣等感といったものが、うずく。
タンゴとは、私にとって、このように「大衆」(という言葉のもとに私が持っている漠然としたゲシュタルト)と隔絶した(と自分には思われる)関係性に、一瞬の照明をあてたものだった。
陳腐で無批判的、感傷的な旋律や和声といった「通俗性」へあえて身を投じてみること。この試みは人からは退行やおもねり、妥協と見られるかもしれないが、私じしんの心理としては、意外にナチュラルなactionである。通俗性という言葉を、私は単なる批判や否定としては使わない。いかなるものであれ、私に衝撃的な光を放つものは、それ自体聖性をもつ。現に世界には幾種類もの聖性がきらめいている。ただ、私自身を除いては。聖なる諸記号は、常に他者の掌中にあり、つかのま私を支配し、自我というまどろみから連れ出してくれるのだ。聖なるものに合致したいという願望は、希死念慮と似ている。
ちなみに、私が書きつつある(エセ)タンゴは、エレクトロやノイズのサウンド断片も使い、3拍子と4拍子を規則的に交代させつつ、相変わらず異常な転調も駆使することで、幾分かは自己防衛機能も働かせた(つまりオレはどうせ「みんな」とはちがうよという、拗ねた自尊心の露呈=圧倒的他者に対する自我の確保)、多少「病んでゆがんだ」曖昧なシロモノになりそうだ。