谷崎潤一郎『女人神聖』
written 2006/11/13
谷崎潤一郎はけっこうおもしろくて好きだ。
彼のイメージは私の中で、武田泰淳と微妙にかさなりあっている。
どちらも、作品としては完璧と呼ぶにはやや瑕疵があり、平易でかつ大時代なある種の臭さを引きずりながらも、自由きままに好きなように書いており、どこか心理的に歪んでいて得体の知れない不気味な体臭がただよってくる。
しかし対極的なのは、泰淳が「女性」というものを自己の妄想の範囲の中でしか描くことができなかったのに対し、谷崎は女性を「その他者性」においてリアリスティックに描写できたということだ。
谷崎が描き出す女性たちは、男性から見た女性という他者の他者性において、ほんとうにすばらしい。
器量や能力に恵まれた男性がいかに女性を掌中に入れたと思い上がっていても、谷崎のえがく女性たちは忽然とひるがえり、他者としての冷たさやおそるべき残酷性を剥き出しにし、男性の腕のあいだをスルリと抜けていってしまう。
中公文庫『潤一郎ラビリンスXIV 女人幻想』に収録されている『女人神聖』(大正6−7年作)は、この点で典型的だった。
主人公の少年は妹と共に美しく、なよやかな姿で登場する。この主人公はしかし、女性になりきれなかった失敗者である。あるいは、女性としての半身を「妹」に奪い去られてしまった残り滓である。
成長するにつれ、主人公はその器量を利用して女性たちをだましていく(最初はなんと、男性なのである。つまり、少年時代の出発点において、主人公由太郎はまさに「少女」なのだ)。
しかし、結局のところ、いい加減に扱われていた女性たちがしまいには「女たらし」の由太郎に牙を剥き、はねつける。
じつはこの転回点に位置しているのが、他でもない、由太郎の分身(女になりそこねた由太郎のパラレルな身体=女という他者)であるところの妹、光子なのだ。
最後に最も残酷にほくそえんでいるのがこの妹であり、そこに暗黒の淵がひらかれるという構造にこそ、この小説の核心とすばらしさがある。彼女(彼の奪われた半身)こそが破滅劇の黒幕なのだ。
だが主人公はそれでも飄々として、今後も女たらしとして生きていくらしいのだが。
この牙を剥く女性たちを、つまり他者のどうしようもない他者性を、苦痛のただ中で恋いこがれ追求するのが、谷崎のいわゆるマゾヒズムの主題であろう。(この作品では、まだそこまで行っていないようだ)
同巻所収の『創造』は軽い思いつきの小品といったふうで、谷崎にはこのような駄作も多くあるようだが、この作品などは江戸川乱歩あたりも好んで書きそうな話だ。
ただ、作中人物の吐く「己がどんなものをクリエイトしても、とても西洋人にはかなわないよ。日本人は当分の間、到底芸術を以て西洋人に打ち勝つことは出来ないと云う、己は堅固な迷信を持って居る
」というセリフに、谷崎潤一郎の本音が見えるような気がして、興味深かった。