ブランショを読む2
written 2006/8/26
モーリス・ブランショの『文学空間』を読んでいる。
これは確か、以前、さらっと読み飛ばしたような記憶がある。当時、バタイユとの近接という観点でしかブランショをとらえられず、なんとなく読み飛ばして、わかったようなふりをしていたのだと思う。
しかし、今回じっくりと読んでみて、すばらしくおもしろいということが判明した。
第一、ブランショの考える「作品」観、「書くこと」についての掘り下げ方は、なんと、私のそれにものすごくよく似ているのだ。
もしかしたら、私はかつてこれを読んだ時、書名と具体的内容については漠然と受け止めながら(従ってただちに忘却しながら)、実は、その内容を非常に深いレベルで習得していたのではなかったか。
そう勘ぐってしまうくらい、似ているのだ。
だがそれより、にわかに面白くなってきたのは、この本で言われているような「作品」内の「言語」のふるまいというものを、こんにちWebでやりとりされている「言語」のふるまいに、かなり当てはめることができる。という確信がある。
ブランショは文学作品における「言葉」や「書くこと」を、非常に特権的なモノとして差異化しているのだが、実は、いまや「作品」という枠組みは曖昧なものとなっており、境界がさだかではなくなっている。
だから、ごく普通の、文学者ではない一般的な人物が、Web上の掲示板とかSNS内の記事とかに「何か」を書き込むとき、ブランショが文学上で想定していたような「特殊な」「書くこと」と同じ現象が起きているような気がするのだ。
境界線が消えたから文学とか芸術が死んだ、という論旨には私は進まないのだが、いまWebで膨大に垂れ流されている「書かれたもの=エクリチュール」は、ひときわ面白いことになっている。それが「作品」としては存在できないことが悲劇なのだが。
ということで、おもしろいことをもぞもぞと考えています。
余裕ができたら、もうちょっと整理して、じっくり書いてみたい。