ブランショを読む
written 2006/8/18
モーリス・ブランショをまじめに読もうと思っている。
実はブランショには苦手意識があった。暗く重苦しく、「深淵」をずいぶん好んでいるらしいあたりなど、イメージ的にはジョルジュ・バタイユとかサルトルなどともだぶる。
バタイユの主題からエロチスムを取り除き、ある種のエンタテイメント性を失ってしまった残りというイメージもある。
「謎の男 トマ」「アミナダブ」「期待 忘却」「文学空間」あたりは、生意気な高校生だった私が、おもな世界名作をざっと読み飛ばしてしまい、さらに「ヌーヴォー・ロマン」のシリーズを図書館で見つけてこれもざっと読み飛ばしてしまった、それらの本の中にあったと思う。
だから、ロブ=グリエなどと同様、よく覚えてはいないのだが、漠然と「おもしろくない小説」という記憶だけ残っている。
ミシェル・フーコーが「外の思考」の中で熱くブランショを語っていたので、もう一度読んでみる気になった。
とりあえず、この一週間のうちに再読したものに関して、メモしておく。
アミナダブ
まず読み返したのは、手もとにあったこれ。
改めて読んでみると、やっぱりカフカの「城」に似すぎている。
よくよく読んでみれば、中身はかなり違うのだが、物語の枠組みがあまりにも似ているので、「カフカの亜流」みたいな印象を受けてしまっていたのだ。
だが、カフカとはまるきり文体が違う。カフカ的な「距離感」「乾いた感触」「ユーモア」がない。ブランショは汗だくで、大まじめなのである。
おもしろいのは結末の方。そこまで読者はがんばって読まないといけないのだろう。結末でやっと、ブランショらしくなる。
謎の男トマ
ブランショの小説はたぶんみんなそうなのだが、この作品は特に、「いかにも」観念小説である。
観念小説は危険だ。
あまりにも作者の筆が恣意的になりすぎて、「好きなように」書いてしまうことに陥り、結局は作者の甘えや幼さが、かえって露呈してしまうことが多いからだ。
しかも観念小説には、小説的なディテールがほとんどなくなってしまう傾向にあって、それが作品の強度を減じてしまう。
だから私は、「観念小説」は苦手なのだが・・・。
ブランショの場合、ちゃんと深い思考をする作家なので、幸い、甘さのようなものは伺えない。
いたずらに難解なのは、ブランショを多数読んで、「まずは全体像を掴んだ上で、個々の作品にもう一度おりていく」という読み方が必要なのだとおもう。
面倒くさい作家ではあるが、もう少し辛抱してみよう。
死の宣告
これはちゃんと読めなかった。
まるで「ふつうの小説」のように前半、つづられていくので、それで油断していたら、「へんな後半の始まり」にとまどってしまい、ついて行けなくなってしまったのだ。
これはもう一度読み返したいと思う。
永遠の繰り言
二つの短編からなる。
「牧歌」は非常にわかりやすい。というか、ほとんどカフカである。主題は、ブランショなのだろうが。
「窮極の言葉」も、長い作品に比べればとてもわかりやすいと思う。不条理へのこだわりがここではあまり粘着的ではなく、スピーディーに展開されるので、快感のようなものもある。ブランショがどこを目指して進んでいったのかが、この小品にはわかりやすくあらわれているのではないだろうか。
さて、ブランショは今日でも入手しづらいようだが、古本で少しずつ手に入れようと思っている。
ほんとうはベケットの方に興味があって、そちらを読みたかったのだが、フーコーがすすめるので(笑)とりあえずブランショになった。