「生きる」とは別の仕方で
written 2006/12/1
久々に作曲している。
「鬱」という停滞、生活上の辛さや多忙さなどから逃避するように、私はまた未来の「作品」に打ち込む。
少なくとも私にとって、「書くこと」は「生きること」と対立している。書いている時は明らかに、日常の諸事象やそれらとの関係性からは解放されるからだ。
ここでいう「対立」とは「相反する/反作用する」とは必ずしも限らない。しかし両項はひたすら差異によって隔たっており、そしてどこかで接触をもつ(つまりパラレルではない)。
「書くこと・生きること」この二つの努力は、私の身体という一点においてかろうじて接点をもっている。
未知の作品に向かい書いていくという過程は、生の反映というよりもむしろ(分析的にはそのような面も常に残されるのだが・・・ピカソが自己の作品の精神的な分析を期待したように)、生への対立、生に対し垂直にそそり立ちあるいは限りなく沈み込んでいくような、強靱な力から生まれてくる。
「生きること」が世界内において外部の他者やモノと共に、めくるめく「できごと」の渦中へと決死の覚悟で飛び込み続けることだとするならば、「書くこと」とは「生きる」とは別の仕方で、決死の覚悟で存在を始めることだ。
ルネ・デカルトのコギトが「考えること」によって「生きる」とは別の仕方で<存在>を開始したように、私の中の何かは、書くことによってそれを渇望し、試みているのにちがいない。
生の彼方にある未知なる作品を盗み取るため、私は悶えることになるだろう。それは永遠の渇望だ。
そしてこのように、「生きる」とは別の仕方で<存在>しようと渇望した存在者の痕跡は、書かれたもの=エクリチュールにおける「筆跡」や「企図」としてしずかに残されてゆくだろう。
私は書いていないとき、まだ存在していないのだ。