item 垂直線に中断された街:篠有里さんの写真

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written 2006/6/25 [ updated 2006/6/28 ]

web上の写真家、篠有里さんの作品について、つたない言葉を寄せさせていただきます。
[2006/06/28 本文に少し修正を加えました。]
篠さんの写真はご自身のwebsite、「街を歩く」でたくさん公開されています。また、グループのサイトAssemblage・∞では 篠さんの写真と詩を見ることができます。詩の最新作は現代詩フォーラムで公開されているようです。

「街を歩く」 Assemblage・∞

以下の文章の中でLinkアイコンの箇所でリンクされているのは、篠有里さんの写真作品が置かれた、彼女自身のページであり、写真作品の著作権は言うまでもなく、篠有里さんが全面的に所有されています。無断で転載等をおこなってはいけません。
また、私のこのページ内に、特別に許可をいただいて篠有里さんの作品を1点だけ転載させていただいておりますが、これも著作権のある画像であり、このページからのダウンロードや転載は禁止します。

裂け目としての垂直線

彼女の写真の魅力は第一に、直感的にすぐれた構図にあるような気がしていた。
彼女のサイトのデザインがそうであるように、それは現代的でハイセンスであり、危うい不安定さとするどさ、そして風通しの良さを宿している。
写真サイトは一般的に、デザインが優れており、どういうわけか絵画系サイトよりもこの意味では上なのだ(あくまで一般論として)。

さて作品だが、篠さんが街を歩きながら撮ったという風景写真で目を惹かれたのは、「垂直線」だ。
常にではないが、彼女の作品の多くでは「垂直方向に伸びていこうとする線」が強調されている。

  • Link walk13 「街を歩く」walk1 より Photo by Ari Shino
    前面の網?の垂直線と光彩、および奥にあるもののシルエットが美しく絡み合っている。

  • Link walk2-1 「街を歩く」walk2 より Photo by Ari Shino
    一般的な意味でとてもよくできた絵だ。ここにも強い垂直線はあるが、強烈さはない。水の主題(後述)が静かさをもたらしてくるのだろうか。

  • Link walk2-13 「街を歩く」walk2 より Photo by Ari Shino
    壁面に反映された像を除けばひどく偏った構図になるが、この壁面との境界を示す垂直線(地面にも続く)は写真の骨格であり核心である。たいていどの写真にもホネは存在するのだが、彼女の写真ではホネが非常に強調され、それ自体が自立して存在しているかのような強さを持っている。

建造物はふつう「重力に逆らった垂直線」によって支えられているわけだから、街をモチーフに撮っている場合、その線が強調されても当たり前のようにも思えるかもしれない。しかし、彼女の写真から浮き上がってくる「垂直線」は必ずしも「構築的な力学的必然性」を持ってはおらず、もっと上空へと突き抜け、あるいは情け容赦なく視界を切り裂くような残酷さをも秘めた冷たい線、一種の「裂け目」「」であるように見えてくる。
そうして「街」の様相は「線」によって解体されていくのだ。

  • Link walk16 「街を歩く」walk1 より Photo by Ari Shino
    彼女の「垂直線」はしばしば傾く。
    私は彼女の写真の傾き加減が好きだ。
    街の地平線や建物が、ときには大きく傾く。傾きによってかつて静的であったはずの街が、にわかに動きだし、なにか別のものへと変貌しつつある。

  • Link walk6 「街を歩く」walk1 より Photo by Ari Shino
    この戯作っぽい作品では人物も線と化し、全体がデザイン化されている。ここでも傾きが絶妙だ。

そうして攪拌されたまちなみは、何かの模様、ゲシュタルト崩壊によってあらわれた意味のつかめない図像、記号の集合体といったものに近づいていくように見える。
 参考 Wikipedia: ゲシュタルト崩壊

街は図形へと向かう

walk8 photographed by Shino

線の図解 by nt

← [ Link walk8 「街を歩く」walk1 より Photo by Ari Shino
Copyright(c) Ari Shino]
この写真は篠さんにお願いして、特別に転載させていただきました。→右の方のラフな図は私ntによるメモです。

この景色は一見何でもなさそうに見えて、全体の構成を支える線の微妙なバランス(ないしアンバランス)が、不思議な魅力を持っている。
もちろん、色彩やディテールを伴うことによって、既視感を伴う街の光景を映し出してはいる。
だが彼女の写真群の中では特に斬新でも、目立つわけでもないこの作品は、線の多層的な走行によって揺らぎ、通路の狭さも手伝って、ねじれながら左奥のの方へとぐいぐいと人を誘ってゆくのだ。
そしてその行き着く先は世界の中心点では決してなく、脇の方に不意にあらわれる、いきなりの深淵である。この穴は何だろうか?

言うまでもないことだが、写真は絵ではない。
写真家は恣意的に作品を構成することはできないはずだ。
何か強い意図を持って画面を構成しようとしても、常にその意図を超えて被写体は露出されてしまう。強靱に実在するディテールと共に。
被写体は絶えず、写真家を超えた存在なのだ(つまり、写されたものは、私の言う他者だ。)
篠さんの場合、たぶん「街の図形化」とかそういう意図はあらかじめ持っていない。むしろ、街自体の中にひそむ図形化/記号化への欲望が、彼女のカメラのまえで自然に現れてくるのではないかとさえ思ってしまう。
一見作為的に見えるこの画面は、なにか心的なものを表現しようとしているわけでもない。街自体のがたまたま遊びはじめたかのように、画面はさわやかなままだ。

脇道にそれるが、被写体=対象物は、= ノエマ(知覚されたもの)なのではない。ノエマはノエシス(対象への志向性)によって形成されるものだ。このへんの事情はメルロ=ポンティ参照。
篠さんの写真の「図形としての街」はノエマであって、対象物そのものではない。しかし写真はノエマだけではなく、対象そのものをも(複製としてだが)呈示する。再構成しなくても対象はそこにある。ここに写真という独特な世界がある。

鉱物、廃墟、マネキンが好きだという篠さんは本人が自覚しているように「無機物」愛好の傾向があるらしい。
そういえば、彼女の写真では、明るい緑に生い茂った植物はあまり活躍しない。
篠さんの街の写真は、濃密な情念が匂うようなタイプのものではない。どちらかというとドライで、冷めている。
垂直線の主題はただのデザイン上の要請にとどまらず、何らかの心的なの投影ではないか。あるいは心的な傷を創出しようという、タナトス的な衝動があるのではないか。などと探りを入れたくもなってくるが、私たちは篠有里さんの心を深く知ることはできないのだから、不可知なことは言わずにおこう。
しかし、線がいよいよ複雑にからみあい、構成がカオスに近づいていくと、秘められた情感が突然噴出する瞬間がある。

だがその前に、線が絡み合う、彼女の優れた、印象的な作品をいくつかあげておく。

  • Link walk10 「街を歩く」walk1 より Photo by Ari Shino
    これもねじれた走行線をもつ図像。は2カ所あって、遠近法上の消失点(画面の中心)、それから傾きによって生み出された、画面の左方(ホームの縁)だ。意味のうえでは、人物がみな背を向けているところが重要だ。

  • Link walk2-16 「街を歩く」walk2 より Photo by Ari Shino
    極限まで図形化/ゲシュタルト崩壊が進んだ映像。斑点のようなブルーとともに、シンプルでクールな全体がすばらしい。

  • Link walk2-20 「街を歩く」walk2 より Photo by Ari Shino
    鏡面のマジックにより、光景はおそろしく複雑になった。鏡の貼られた正面の柱の輪郭線が傾きながら垂直に、画面をつらぬく。ここではカオスである地に対して、ゲシュタルト=垂直線が、ややヒロイックな身振りで構造を主張している。
    これは篠さんの傑作かもしれない。

水/円ー沈んでゆく視線

線が消失した地点で立ち現れてくるのは、カオス、静かさ、奇妙な抑鬱、そしていわば臓器的な感覚だ。それは身体の内部にもぐっていくような指向性であり、ときとして写真は驚くべき唐突さで、グロテスクにも血なまぐさくもなってゆく。

  • Link walk9 「街を歩く」walk1 より Photo by Ari Shino

  • Link walk2-5 「街を歩く」walk2 より Photo by Ari Shino

このように、この種のイメージはほとんどの場合「」に関係のある場所から発生するらしい。
水面のたいらさでは「垂直線」の強度が吸収されて消滅してしまい、そこでは暗いものがよどむ。イメージは線状のものから球/円状のものへと変貌している。
このよどみに誘われるように、視線は皮膚を通過して身体の内側を目指していき、血と混じり合うように見えるのだが、こうした感覚は女性固有のものなのかもしれず(こういう感覚はたとえば伊藤比呂美さんの詩にもある)、所詮オトコにすぎない私には透視できない世界もあるかもしれない。
これらの写真における「血」の出現は、日常性とか生活臭からはなぜか切り離されているように見えるので、非常にショッキングだ。

最後に

篠さんの写真はハイセンスで美しくもあると思う。
図形化にちかづきながらも、写真は「自己表現」の泥沼からは遠くにいる。だから彼女の作品には作為的なイヤミは感じられないのだ。

ちなみにしのさんは詩も書いておられ、サイトにある楽しいdiaryと合わせて読んでみると、彼女のエクリチュールの本質は毒をふくんだ流暢で線的な口語体だということがわかる。
「何も考えてない」と本人はおっしゃっていたが、理屈っぽく考えずとも、魅力的で奔放な線を直感的に見いだす才能は、写真のなかに刻印されている。
必ずしも考える必要はないのだ。
篠有里さんの写真は衝撃と謎を伴いながら、私にふかい感銘を与えてくれる。

「街を歩く」 Assemblage・∞

この拙い文章を読んでくださった方は、是非とも篠さんのサイト「街を歩く」やグループのサイトAssemblage・∞を直接訪問してみてください。対象が写真家の意図を超えてあらわれるように、すぐれた作品はあらゆる批評を超えて屹立します。

今回、私のようなど素人に批評文?を試みることをゆるしてくださった篠有里さんに心から感謝します。 nt

以上の文章の中でLinkアイコンの箇所でリンクされているのは、篠有里さんの写真作品が置かれた、彼女自身のページであり、写真作品の著作権は言うまでもなく、篠有里さんが全面的に所有されています。無断で転載等をおこなってはいけません。
また、私のこのページ内に、特別に許可をいただいて篠有里さんの作品を1点だけ転載させていただいておりますが、これも著作権のある画像であり、このページからのダウンロードや転載は禁止します

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