item 写真とは何か〜バルト『イメージの修辞学』

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written 2006/6/20

姉の葬儀のために中断されていたが、最近、「写真」というものについて考えていた。
きっかけはバルトの『映像の修辞学』だ。

ちくま学芸文庫の1冊で、さすがバルトという感じで面白い本なのだが、このなかの一つの論文「写真のメッセージ」が気になった。

ここでのバルトは、特に「報道写真」を問題にしているのだが、写真は「そのものずばりの現実」(ロラン=バルト『映像の修辞学』(蓮實重彦・杉本紀子訳 ちくま学芸文庫)より「イメージの修辞学」1961)を伝えるとし、次のように続ける。

たしかに物から映像への移行には、ある縮約がある。寸法、遠近法、色の縮約である。だが、この縮約は決して(語の数学的意味での)変形ではない。...(中略)...オブジェと映像の間に中継物、すなわちコードを設定する必要はまったくない。たしかに映像は現実のものではない。しかし少なくともその完璧なアナロゴン[アナロジー、相似物]であって、常識的に写真を定義するのはまさしくこの類似の完全性なのである。...(中略)...こうして写真映像の特殊な位置づけがでてくる。写真はコードのないメッセージであるという位置である。

(前掲書)

ここでバルトが言っていることはきわめて「常識的」な言葉だ。
ここでひっかかるのは、むしろ「現実の光景を切り取り、それを像として呈示するその手法にこそ、(報道写真といえども)写真家の<表現>が込められているのではないか」という反論である。この反論も常識的だ。
ニュース番組が呈示する「情報」が、「事実そのもの」ではないはずなのに、私たちは一般にそれを「つねに事実以外のなにものでもないもの」として受け取ってしまい、いわばマスコミに操られてしまう、というような社会的な問題ともこれは関連している。
要するに、「切り取られて間接的に呈示された現実はすでに現実ではない」ということなのだが、バルトはここを無視しているわけではあるまい。

さらに、バルトは次のように語る。

展示用の写真を撮る写真家の意図に反して、写真には芸術はぜったいになく、あるのはいつも意味だということは確認しておく

(前掲書)

これはかなりの極論だ。逆説である。
さすがに言い過ぎではないかと思うのだが、考えてみると、たしかに写真と絵画は全く違うものであり、バルトの言うように「最後には真っ向から対立」しかねないものかもしれないという気がしてくる。

私の考えでは、作品としての写真は、その呈示のありかたにおいてたしかに「作品」であり、他の芸術のありかたとそう違うわけではない。
しかし写真には、その出発点においても完成地点においても、「現実/もの自体/できごと」が明確にあらわれている。
ひと(オーディエンス)が作品としての写真に向き合うとき、まずは写真家による巧妙な技法に直接接しながらも、被写体である「モノ」や「現実」のほうに引き込まれていく。
このとき、写真家が被写体に向けたまなざし(ノエマに対するノエシス)と、鑑賞者が写真内の被写体に向けるまなざしは、必ずしも一致しない(あるいは一致しなくてもよい?)のではないかという気もするが、ともあれ、「写真」はノエシスだけではなくノエマの輪郭を同時に提出できるという部分に、「芸術」の枠組みにあっては極めて異色な面(あるいは優れた面)があると思う。

私はこの「写真」という謎についてこれからもう少し接近していきたいと思っている。

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