坂口安吾
written 2003/9/6 [ updated 2006/6/1 ]
Sakaguchi Ango (1906-1955)
安吾は魅力的だ。そのたくましくしなやかな身体が魅力なのだ。
決して技巧に優れた小説家ではないし、革新的な方法をもたらしたわけでもない。にもかかわらず、彼の小説は今読んでも面白いし、エッセイは刺激に満ちている。
安吾は「意味」の中でいつももがいている。
しかしそれをどうにかして突破しようとしているその志向・そのエネルギーが刺激的なのだ。
日本文化私観 (1942)
今日読み返しても多大な示唆を受ける、感動的なエッセイの一つ。 ここで安吾は俗にいう「伝統的な日本の美」なるものを批判し倒し、 「生活の必要」こそが、歴史のなかの真実であると主張する。 しかも、こんなタイトルなのに全然日本文化そのものを論じていないところがおもしろく、安吾らしい。
堕落論,続堕落論 (1946)
大過をもたらした戦争を「あのすさまじい偉大な破壊の愛情」と捉える斬新な視点が衝撃的だ。
そして、あの戦後間もない頃、安吾は人間も日本も、「堕ちる道を堕ちきる」べきだと主張した。
この堕落は、美しく、ラジカルだ。
白痴 (1946)
ドストエフスキーを思わせる「無知で無力で、無垢な人間こそが美しい」といった言説は、現在ではインテリの幼い夢に過ぎない。
無垢な存在として初め提示される「女」は、結局は単に「動物的」であるばかりで、ほんとうに心惹かれる何ものかを持たない。この発見は主人公にとって幻滅をもたらすのみだ。
この小説では安吾は「堕落論」のテーマ、「戦争の破壊の巨大な愛情」を描写したかっただけなのかもしれない。
その破壊のあとには、堕落が待っている。
桜の森の満開の下 (1947)
これはとても美しいメルヘンだ。「青ひげ公」みたいな残虐な描写も妖艶。
青鬼の褌を洗う女 (1947)
話体に近い女性の独白調、といえば、何といっても同時代の太宰、今日では村上龍氏の作品が魅惑的だが、安吾のそれはまたちょっと違う魅力がある。
安吾の女性像は闊達で、ちょっとアポロン的な輝きを放っている。この作家は、他者というものを知っていたのである。