立ち止まること
written 2013/8/18
ピアノ前奏曲3連発のあと、これらをまとめてひとつの動画にして公開。さて次の曲は。と思ったが、何となくすぐ次に取り掛かる気がしなくなって、立ち止まった。
いっときがむしゃらに突き進んだ後、ちょっと歩を止めて沈黙しようとするのは、無意識のうちに「自我」のバランスを調整し崩落を回避するための、ホメオスタシス的な、自然な反応かもしれない。
半年以上、ボーカロイド含め「ポピュラーミュージック」方面は休業していた。「現代音楽」の領域で、最終的には演奏者が読む「楽譜」の点数を増やそうとしばらくやって来た。
あげくに何故かオケ曲まで書き、さらにこの夏は「23前奏曲」のピアノ曲を3つ連続して作った。
相変わらず、私のピアノ曲は演奏してもらえない。
いろいろ理由は考えられるが、実のところ、最大の原因は「曲に魅力が足りない」からだろう。いつも繰り返していることだが、私はやはり「ただのアマチュア」なのである。ぐんぐん「現代音楽」にも近づいてきたし、まだこの先書き続けていけば、作品はもっとマシなものになって行けるかもしれない。しかし、きちんと若い頃に、ちゃんとした先生から音楽を勉強してきた人には決して追いつかないのではないかと思う。いつまでも「ただのアマチュア」である。
それでも「現代音楽」っぽい曲を書くことは、以前よりも明らかに楽しくなってきているから、この先も私は書き続けるのだろう。これは探究するべきものが見つかり、それに対する求心欲求が止まらない状態だ。書いてどうなるというわけでもないが、このつまらない人生の中のつまらない行為の一環として、やっぱり書き続けるのだろう。
しかし100%純粋な「探究者」であったなら、もっと幸せだったろう。私の心理傾向はより複雑であり、かつそれゆえに脆弱である。音楽をとおして他者に理解を求めたいという「煩悩」が消えず、「作品」自体のアマチュア的レベルの低さのために(つまり「認めてもらえず」)、この欲望は常に挫折を味わう。
自室に閉じこもって音楽を聴き、コンピュータの前に長時間座って音楽(のようなもの)を生み出す私たちは、インターネットにおいて自作を流通させることによって、社会へのコミット(アンガージュマン)を試みる。我らド素人の無名な「DTMer」たちは、ネットでの自作へのレスポンスに一喜一憂し、大抵は無視され、捨象されるという事実にくよくよすることになる。かくして「作品」を通した社会内他者とのコミュニケーションはたいがい失敗する。
そもそもインターネットのSNS等でのいわゆる「コミュニケーション」は、それ自体がまっとうなコミュニケーションとは言い難い場合が多く、こんな虚構の空間(そこは「場所」にすらなっていない!)で傷ついたり疲弊してしまうことは馬鹿げている。馬鹿げているのは明らかなのに、私たちはそれでもしがみつき、渇望し、つながろうとする欲望を抑えることができない。
社会は渇きが癒されることのない永遠の砂漠である。唯一ただしいのは渇き自体から解脱することだけだ。もちろん、私たちにはなかなかそんなことはできないのだ。
私が「現代音楽」の方向に突き進んだとしても、結局ある種の「ポップさ」を手放すことはできない。一方で、ポピュラーミュージックを作っても、現代音楽的な批評精神を発揮し一筋縄ではいかない奇矯さを忍ばせるので、一般的なリスナーになじむことはない。
このような中途半端で偏屈なアマチュアはどちらに転んでも、正統的な現代音楽のサイドにも、一般的なポピュラーミュージックのサイドにも、結局受け入れられることはない。この中途半端さ、どっちつかずの身勝手さが、私のポジションである。
このポジションの危うさに自ら戸惑いながらも、それでも私は段階的に進歩していこうとする。
そういうわけで、「現代音楽」シリーズの作曲はいったん中断して、こんどは少しポピュラーミュージック的なものを再び作ろうと思っている。今度は久々にボーカロイドも使う。
出来上がるまでしばらくかかるので、よかったら、最新作のピアノ3曲でも聴いていてください。