共時態の音楽
written 2012/7/31
レヴィ=ストロースの多文化主義を20世紀以降のもっともまっとうな倫理的規範と考える私にとっては、近代西ヨーロッパの独善的「進歩」文明観は完全に大昔のものでしかない。たとえば、ヘーゲルの歴史観。
ポール・ヴァレリーは第一次大戦後に非常な危機感にかられ、(ヨーロッパの)「滅びる運命」を意識した。
もちろんヨーロッパ文化が滅び去るわけはない。ただ、それまで世界の「中心」を占めていたはずの西ヨーロッパの位置はあいまいになり、周縁的と考えられてきた文化が注目されるようになった。ただし、資本と軍事の権力を掌中におさめた米国という、力学上の巨大な歪みを除いては。
音楽の「歴史」はドイツ、フランス、イタリア、オーストリアあたりに着目されてきた。そこで音楽は「進歩」してきた、と信じられていた。けれども過剰な歴史意識と「進歩」という強迫観念にとらわれた独仏では、「前衛」の嵐が過ぎ去ったあと、いまひとつぱっとしない。(ベリオもシュトックハウゼンもとっくに死んだのだ!)
最近は、ヨーロッパ音楽の中では「周縁的」と感じられてきたイギリスや、デンマーク、フィンランド等の北欧の現代音楽に惹かれるものがある。そこには、独仏的な音楽歴史主義・進歩主義の重圧がなく、より自在に音楽をやっている楽しさが見られる。
教育システムに秀でたフィンランドは今や「音楽大国」になってきているようだが、たとえばノルドグレンあたりを聴くと、無調の先に調性的な、濃厚なロマン主義が見えてくる。ラウタヴァーラ、リンドベルイなども聴くと次第に調性への回帰としか言いようのない現象が見られ、たぶんこれはフィンランド20世紀の「国民ロマン主義」の心情が反映されているのだろうと予測する。
フィンランドほどロマンティックでなくても、デンマークやイギリスの現代音楽もしばしばあっけらかんと調性音楽が顔を出す瞬間がある。ペンデレツキの調性復帰とはまた違う感じで、単に西ヨーロッパという「中心」における音楽歴史主義・進歩主義から距離を置いて自由なのだろうなという気がしている。
デリダを持ち出すまでもない。「脱-中心化」は20世紀後半の世界の普遍的な現象である。
西欧の近代主義的な芸術観から脱却してみれば、世界は実に多様な音楽に満ちている。アフリカやインド、中東や南アメリカ等々の古典民族音楽は実に素晴らしい果実だし、西欧クラシックも源流へさかのぼり、中世の宗教合唱曲とか世俗歌曲(ミンストレルなど)の再現を聴いてみると、「拙さ」を超えたえも言えない味わいがある。
同様に絵について言うと、ルネサンス以降の西欧近代絵画ももちろん素晴らしいが、わが日本画にも優れたものがたくさんあるし、もっとさかのぼって、縄文時代の土偶とか、ラスコーの壁画とか、「未開民族」の彫刻作品とか、どれも魅力にあふれていると思う。
何かひとつだけを取り出して「良いというのはこういうことだ」と安直に結論づけられなくなってきた。
このような美学的転回の契機が訪れたのは、やはりこんにちの「情報化社会」の影響が大きいだろう。
凄まじいスピードで、膨大な情報・刺激・意味・象徴・そして「作品」が世界中を飛び交っている。
ポール・ヴァレリーが「人間は浪費に酔っている。速度の濫用、光の濫用、強壮剤・麻薬・興奮剤の濫用、印象に刻印するための反復の濫用、多様性の濫用・・・
(「知性について」『精神の危機』恒川邦夫訳、岩波文庫)」と予見した光速の「濫用」社会が、インターネットの発展とともに、今ここに、ある。
私自身も例外にもれず、この「情報化社会」に決定的に依拠している。頭のてっぺんからつま先まで。
人々はあらゆる情報にどん欲になり、結果、「情報を与えられないこと=隠蔽されること」にすこぶる敏感になっており、全然知る権利のないことにまで「隠蔽するな!」という見当違いな怒号を上げている。
情報個々が粒子となってしまうと、それらは結局全体として方向性のないカオスな空間を形成する。要するにエントロピーは最大となり、熱量は死滅し、灰色の海がただ広がってゆくだろう。
音楽においても「どれも素晴らしくて、どれがよいとは一概に言えない」と主張することは、究極の所この「灰色の海」に眠りにつくことだ。ポスト-ポストモダンとは、たぶんこのグレーの世界を指すのだろう。
しかしここには「何もない」わけではない。ここにはたくさんの快楽が用意されている。
世界のすべてを蕩尽するかのような、膨大な快楽が。
さてこの灰色の世界、極度の「情報化社会」はどんな芸術の、音楽の、創作を可能にするのだろうか?
西欧に偏った歴史観、とりわけ独仏あたりの「音楽史」観にもとづいて創作をつづける従来のいとなみを「通時態の芸術」と呼ぶならば、その対極として、「共時態の芸術」がいまや可能なはずなのだ。