認識と差異
written 2011/12/27
観念論のような難しい話ではなく、経験から言えることだが、「なんとなくわかっている」ようなつもりになっていた事物でも、あるときそれが全くの勘違いだったと気づくようなことは、誰にでもあるだろう。「これらは、こういうものだ」とずっと思ってきたけれども、あるときふと気づき、「これら」とくくってきたものA、B、Cが実際はひとくくりにできないような、それぞれに全然ちがうものだったと理解することがある。
猫の顔なんてみんな同じだと思っていたが、身近に何匹かの猫と接してみると、それぞれの顔の違いに気づく場合もあるだろう。
これは人間の認識の方法が、そういうふうになっているので仕方がない。最初人は、未知のもの・なじみのないものに接したとき、とりあえずそれを漠然としたゲシュタルト=像としてとらえ、自分のボキャブラリーによって把捉可能なかたちでカテゴライズしておく。ゲシュタルト獲得を第一とする人間の認識方法は、コンピュータ的なものとはまったく違い、細かな差異を一度に認識してデータベース化するのでなく、おおきな括りでまず捉え(パターン認識)、後から熟知するに従って、小さな差異を識別していくことになる。
最初からいちいち細かい差異に気をとられていたら、不意に外敵に襲われたとき、逃げ遅れてしまうだろう。初めにおおざっぱなパターン認識を迅速に処理し、反応する能力は、人間だけでなく、動物にとって必要不可欠なものだ。
一般的な調性音楽にばかり慣れてきた人が、はじめて無調の現代音楽を聴いたら、「なんだこりゃ?」と言うだろう。子どもの頃からある程度聴いていれば抵抗はないだろうが、そういう経験がなければ拒絶反応を起こすかもしれない。これは日本の音楽教育の歴史とも関係があって、私たちより上の世代では、学校等で無調音楽や、日本の伝統音楽(能など)に触れることもなかった。(私たちの親の世代は)例の文部省唱歌という、ねつ造された日本音楽で画一的に洗脳されてきたし、音楽室にはバッハ、ベートーベンなどの肖像画が飾られ、一番新しい作曲家でドビュッシーどまり。日本人はいたとしても滝廉太郎くらいだろう。
私自身、中学生の頃だったか高校生の頃だったか、初めてラジオでメシアンのトゥーランガリラ交響曲を聴いたときは衝撃を受けた。この曲の場合は感触的になんとなく魅力を感じたが、その後、ケージやシュトックハウゼンなどの名を知り、ほんの少しだけ聴く機会があって、案の定「こんなの音楽じゃない、現代音楽は間違った方向に進んだ!」という、例のステレオタイプな判断に陥った。
こういうことを叫ぶ人たちは、実際にはほとんど「現代音楽」を聴いていないし、非常に限定された知識から結論しているように思える。そもそも彼らは、調性音楽なるものが「人工的な自然」に過ぎないことに気づいていない。
「現代音楽」という漠然としたゲシュタルトを認識し、一括して脳内でカテゴライズし、自己の世界観の中で、乏しいボキャブラリーに依拠しながら適当に位置づけて「片付けてしまう」やり口である。
ところが、「現代音楽」ととりあえず総称されている音楽の集合は、実に様々な技法・感性で作られた音楽作品を含んでいるので、最初全部同じに見えても、少しずつ聴いていくうちに、広大な世界が開けてくる。「無調」は調性的な三和音を避けて作られるが、完全な無調を体現するセリー系以外にも、さまざまな程度に調性的な色彩をもつものも多い。「どれも不安を表現しているだけ」なんていう感想は、絶対に出てこない。
ひとくちに現代音楽といっても、たとえばシュトックハウゼン、クセナキス、ケージ、リゲティ、ベリオ、シュニトケ、グバイドゥーリナ、武満徹、三善晃などなど、それぞれの個性はまったくことなっていて、知れば知るほど、「一概に語る」のはあほらしくなってくるだろう。
「現代音楽は○○だ」という簡単な語り方ができるのは、その内実を知らないからで、そうした言説は「黒人は○○だ」という言い方と同様に乱暴でもある。乱暴な言説だと気づかずに安穏としてしまう無知の恥ずかしさは、その無知を乗り越えないと見えてこないだけに、救いようがないものがある。無知は無敵である。
このように考えていくと、さまざまなものの「差異」をどんどん発見していくことが、人間の生涯における知的進展をそのまま明らかにするように思えてくる。
「違いが分かる男の・・・」というコーヒーのCMはなかなかに妥当であり、グルメの世界と同様、この世のあらゆる文化的領域に関して、「違いがどんどんわかっていく」というのは「修練」のたまものと見なされる。
しかし、詳しければエライのかというと、そう判定するのも本当は難しい。
ちょっと考えてみても、この世のあらゆる事象の微少な差異をことどとく知り尽くすことは不可能であり、誰かはあるものに詳しく、別の誰かは別のなにかに詳しい。自分は詳しいつもりでいても、数年経ってあるとき、自分は全然甘かったと気づくこともあるだろう。
そもそも、人間の能力が一方向に必ず上昇していく、という考え方自体が、現在の文明の「幻想」であって、知的段階AからBに、時間的に推移したとき、そのBはAよりも「上」だと思い込んでしまうのは錯覚なのかもしれない。
芸術・科学・スポーツなどの各局面(「技術」が問題になる諸領域)に限定すれば、レベルアップのための認識力向上が必要とされるかもしれないけれども、生全体を見渡す視点から見れば、それはさほど重要なことではないのではないだろうか。
どの段階でも、人はその時点で可能な範囲内で、ゲシュタルト化とカテゴライズを懸命にやっている。 なんのために効率化しなければならないのか? 人生に効率化をもはや求めないような静かな境地にたってしまえば、「進歩しなければならない」という無限の強迫命令から逃れられるのではないか?
とりあえずあとで恥ずかしい思いをせずにすませるためには、おおざっぱな物言いや、わけしり顔をやめ、慎重に、謙虚な態度を心がけるしかないだろう。
差異の認識を誇り、競い、言い争うのも結構だけれど、個人が無限の差異の連鎖のなかに踏み入ることにはおのずと限界がある。やりたければ精一杯やればいい、だがそれが生のすべてではないという事実に立ち返る瞬間、それはいつかやってくる。あるいは死とともに。