スタンリー・キューブリック 居心地の悪い世界
written 2009/6/21
このところ、スタンリー・キューブリックの映画を立て続けに観たら具合が悪くなってきた。
映画の筋がどうこう言うよりも、あの「不自然に綺麗すぎる」映像に神経を逆なでられる思いだ。
スタンリー・キューブリックは「完璧主義者」としてよく知られており、純粋な「映画監督」としての業務を超えて映画制作の全面を指揮し、特に撮影に関しては自身かなりの腕とこだわりを持っていたようである。
そうして彼の映画に映し出される映像は奇妙にスタティックで、数理的にきっちりとした、無機質な美しさに満ちている。この「美」は、人に安心感を全く与えない。「時計じかけのオレンジ(1971) 」でも「シャイニング(1980)」でも、あるいは「フルメタル・ジャケット(1987)」の前半の訓練の場面でも、恐ろしいのはそれらの建物の、「あまりにも清潔で、整然とした秩序」なのだ。
塵一つ、汚れ一つない、あまりにも綺麗すぎる白さ・・・生活感の、完全な欠如。この世界は機械的で、合理的で、冷たすぎる・・・。
そして演技する役者たちは皆生き生きとやっているはずなのに、なぜかキューブリックの映像からは人間の気配がしない。生きているはずなのに、生きている感じがしない。・・・息苦しい。彼の映画を観ていると息苦しく、やりきれなくなってしまう。世界はなぜこんなにも居心地がわるいのか?
「生きてない感じ」といえば、楳図かずお氏の漫画を思い出す。楳図漫画の人物たちも、へんに硬い質感を持っており、生きた感じを与えない。化け物ではなく「被害者」側の人間たちの腕や脚には、まるで血が通っていないように見え、この漫画空間で最も怖いのは、それらの非=生命性なのだ。これは彼の画風、あるいは人間観がそのような冷たさを持っているからだろうが、キューブリック映画ではさらに息苦しさが強烈だ。なぜ俳優たちの生が、その空間では静止してしまうのか。
「シャイニング(1980)」はスティーヴン・キング原作のホラーだが、ここでも最も恐ろしいのは、殺人鬼と化したジャック・ニコルソンなのではない。前半のほうの、不自然なまでに白いホテルの壁や床であり、そこを少年が乗っていくカートのえがく軌跡なのだ。そしてホテル脇の、鳥瞰された「迷路」の、あまりにもきっちりとした構造。このような秩序になぜ人が生きていけるのだろう? 狂気は殺人鬼に宿るのではない。完璧すぎる秩序に最初から宿っているのだ。
「歴史物」である「バリー・リンドン(1975)」はサッカレー原作らしいが、この小説は読んだことがない。なんだか無駄に曲折したようなプロットだが、屋外の美しい自然が背景となっているのに、なぜかそれらも人工的に見えるのはキューブリック・マジックか。
この映画では後半、主人公の幼い息子が死ぬ場面で強く感銘(通常の、ドラマチックな感動)を受けたが、これは私が子供を持つ身であるからかもしれない。貴族に成り上がった主人公は結局、一気に破滅し、追放されるのだが、この過程にも非常な「居心地の悪さ」を感じ、そのまま辛いエンディングを迎えてしまった。映像ばかりか、ストーリーも「居心地が悪い」・・・とても「嫌な」感触を残した映画だった。(「嫌い」とか、「悪い」とかいう意味ではない。)
キューブリックは音楽の選定にも自ら慎重に携わっているようだが、「バリー・リンドン」ではヘンデル、バッハ、モーツァルト、シューベルトなどを、「シャイニング」ではバルトーク、リゲティ、ペンデレツキといった我々にはなじみ深いクラシック音楽を多用している。これらの音楽はもちろん、その場面その場面で効果的ではあるのだが、妙に「何かずれている」という感じもする。これまた、「居心地の悪さ」だ。「フルメタル・ジャケット」のエンディングはローリング・ストーンズだが、これも合っているようで、何となくおかしい。
振り返ってみると、私たちの「現代社会」も、なにやら「生活感のない」息苦しいような世界なのだ。
私たちの世代は虚構のヒーロー・ヒロインものの特撮・アニメや漫画、アイドル、タレント、豊富な玩具、そしてゲームなどで育ってきており、「社会を生きる」とは「記号を享受し、消費する」ことだという倫理を染みこませられている。さらに若い世代はいっそう進行しており、記号の消費に心奪われ、「人間」はどんどん希薄になってゆく。
この「享楽すべき希薄さ」は、心の奥にはやはり「居心地の悪さ」を投げかけているに違いない。
ヒステリックなタバコ絶滅運動や、「食の安全」に対するトラブルへの異常な敏感さ、「新型の」インフルエンザに国家をあげておびえる気弱さ。
もはや日本人はビニール張りの「無菌室」にでも閉じこもるほかないのではないだろうか。
そうして行き着く先は、生活感のない・空恐ろしいほどに真っ白な壁面に囲まれた場所。キューブリックの映像がもたらす「居心地の悪さ」は、私たちが間もなくたどり着こうとしている、「ほんのちょっと先」の未来の姿なのではないか?