ポップとは何か
... 思考
written 2009/1/20
ポップ・ミュージックは、既存の修辞法を収集して組み合わせ、再活用することを基礎とする。
つまり共有される既存の言語群(ラング)を常に前提としており、記号と化した音楽要素(フレーズ、リズム、コードなど)を配列し直すのが楽曲作成者の仕事である。この無数の再活用/複製が、市場をにぎわす大量消費を見込んだ大量生産を可能にしている。
ポップ・ミュージックの世界では音楽そのものよりも記号作用の方が重要だ。
「アーティスト」やスター、アイドルはその身体を記号として市場に捧げているのであり、その本質は実は無名性にある。
ポップであるとは、その他大勢の顔を持たない群衆と同化することであり、つまり名前を失わなければならないのだ。
タレントとして有名であることが最終的に無名性を指向するというこのパラドクスは、音楽市場における記号の等価性=交換可能性によって要求されている。ある消費者は浜崎あゆみを求める。別の消費者はPerfumeを求めるだろう。浜崎もPerfumeも市場全体を形成する各細胞を体現しているだけであり、記号としてうまく機能することによって、音楽消費社会を維持している。
仮に引退や没落によってタレントが「シーン」から消えてしまうとする。だがこの喪失は必要なことであり、新たな細胞を注入し新陳代謝の作用を促進することが、音楽消費社会全体の肉体を活気づかせるのである。だからタレント=アーティストは交換可能なものとしてしか存在しえないはずだ。引退/没落は、この音楽消費社会の持続を象徴する重要なイベントであり、だからこそ、ファンたちはそこで祭りの踊りを通して儀式を盛り上げ、祭りのあとは注意深く次の記号を待ち受けるのだ。
表層に浮上して来るアーティストたちに比べ、楽曲を提供するコンポーザーやアレンジャーは(シンガーソングライターやバンド・ミュージックを除いて)、本当は音楽生産を実際に担っているかなめであるにもかかわらず、「浜崎あゆみ」という記号に隠れてその生身を視野の外にひそんでいる。彼らの無名性は、ポップ・ミュージック/音楽消費社会の本質をそのまま証明しているように思える。
記号の世界に他ならないポップ・ミュージックの世界とは、究極的には、まさに人間不在の空間なのだ。
人間を不要とする記号の戯れこそが、「ポップ」の核心である。
このように描写してきたポップ・ミュージックは、実は我々の社会においては極めてナチュラルなものである。ナチュラルなもの、つまりそれは、非西洋的な文化圏における民族音楽と対等なものだ。どちらも、「民衆」とともに存在している。
ただ、ポップは西洋音楽(クラシック)をベースとしており、経済構造に組み込まれ、現代の高度なテクノロジーを必須としている。そこが、異様な点(あるいは病的な点)ではある。
豊かな大地に根づいた民族音楽や、青い顔した都市に根づいたポップ・ミュージックに比べ、芸術音楽、いわゆるクラシック音楽の方がはるかに不自然なものではないか。
そこでは、英雄的個人(芸術家)がいかに名声を築くかが重要であった。西ヨーロッパの個人主義は虚栄心の歴史、権力闘争の歴史である。作曲家たちは、自分こそが権威を獲得し、歴史に名を残すのだと息巻いていた。ポップや民族音楽が原則とする「無名性」とはまるで反対の原理だ。
特殊性を追究(新奇さを目指しての、馬鹿げた努力!)するあまり、20世紀後半以降はすっかり聴衆を失ってしまい、欲していなかったはずの無名性(カルト性)に逆に陥ってしまったのはただの皮肉だろう。
ただ一人、ジョン・ケージだけが、無名性(匿名性)にまで溶け込もうと試みた。彼は東洋思想に心奪われた、異常なアメリカ人(変人)だった。
ケージの音楽は「芸術音楽」界に衝撃を伴ってブームを巻き起こし、その「前衛的身振り」を模倣しようとする者がたくさん現れたが、彼の思想には後継者はいなかった。
一部のスノッブの巣窟にはもはや音楽は存在しない。
音楽は「人々」のものだ。
が、ポップ・ミュージックはそれ自体病いを抱えており、あらかじめ文化によって規定された記号作用なしに・経済的な諸力なしに音楽はありえなくなってしまった。経済成長を謳歌する時代には明るさの象徴だったそれは、文化の腐敗とともに虚ろさを露呈した。
私たちはどこに音楽を求めようか?
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