夢の領分
written 2008/10/6
太古から、人は夢の中で、世界と交信するのだ。
日常生活からは隔たったその場所で、人はやっと「神」を見いだし、生や死を意味付けるシステムを発見できる。どの民族ももっていた神話や物語の空間に、儀式や呪術を用いることでアクセスする。呪文・聖句 mantra が人を導き、生活次元の表層に穴を穿つ。穴をくぐるとそこは夢の世界だ。そこでこそ、宇宙や自然の深奥と交感することができるのだ。別の言い方をするなら、そこは彼自身の深層であるにちがいない。
そのような想像界、意識の深層に対するアプローチはともあれ、狂気である。
形而上学を獲得しようとする欲望は狂気である。
宗教もまた、狂気である。
いうまでもなく芸術も、狂気である。
近代以降の西洋は表向き狂気を排除することで、理性なるものによる社会の支配をもくろんだ。
しかし公的に排除された「狂気」は、たとえばロマン主義的な文学や芸術のなかに身を潜めることで、人間の意識のバランスを保とうとしたのではないだろうか。
だが20世紀以降、科学・技術の「発達」や資本主義経済の高度化は、いよいよ人間に夢を禁じるのだった。
こんにち日本人は夢を見ない。
商業化された記号 signes の氾濫に圧倒され、人は夢の世界への通路を失った。
「現代」とは人々が自らをサイボーグ化しようとする時代である。サイボーグの欲望は(経済)社会の中心に位置する空虚な無人の管制塔によってコントロールされる。企業も、店員も、ビジネスマンも、タレントも、メディアも、公務員も、政治家も、サイボーグとみなされたすべての存在には「人間的放縦」はゆるされない。行動も人格も、管制塔によって規定されているのであり、そこから逸脱することはゆるされない。
この「許容しない社会」は絶えず監視し、人を裁くので、サイボーグたちは自らの身体を社会の皮膜の組織に精一杯かさね続けるよりしかたがない。
もちろん、もはや夢などゆるされない。
このように狂気を禁止した社会は、サイボーグ化に徹しきれずはみだしてしまった一部の人々を、その抑圧自体の空虚さによって逆に狂気へと駆り立てるのだろうか。しかしそんな狂気の一瞬の躍動さえもが、新聞やニュースのさっそくの餌食となり、あえなく記号化されてしまう。そして記号を餌として喰らい、いっそう肥えてくゆくのは、この気味悪い社会の非人格的な神でもある、あの空虚な無人の権力そのものでしかないのだ。
かろうじて虚構の世界でだけ、つまりあらかじめこれは虚構であると明言した場合に限って、夢の世界を確保することは今でもできる。この虚構を生き抜き、一方現実の身体のほうこそ虚構にすぎないと錯誤しえたとき、つまり全面的に狂気の欲望に没入しえたとき、私たちは(眼に見えない)世界と交感することができるだろう。
そのとき人はサイボーグとしての機能を失ってしまうのかもしれない。だから社会は彼を処刑するにちがいない。