item 音楽と運動―ベルクソン、バッハ、アインシュタイン

textes ... 思考

written 2007/6/19

音を次々と連鎖させ、異なる局面を絶えず迎えながら進んでゆく音楽とは、アンリ・ベルクソンのいう「運動」そのものである。
ベルクソンは悟性のはたらきの癖により、「運動するもの」について人はどうしても空間的な認識の枠組みでとらえてしまい、切断しえない運動の軌跡を細かな点の集合として考えてしまいがちだと指摘した。

実在するのは、できあがっている物ではなく、ただできていく物であり、維持される状態ではなく、ただ変化する状態である。静止はどこまでも外見にすぎず、むしろ相対的にすきない。
(中略)
われわれの悟性は、その自然の傾きに従う際には、一方では固体的な知覚、他方では安定的な概念によってはたらく、われわれの悟性は動かないものから出発して、運動を考えるにも表わすにも、不動ということに照らし合わせていく。
ベルクソン「哲学入門」(1903)河野与一訳、岩波文庫『思想と動くもの』所収

これを音楽という運動について考えてみるならば、歴史的に「音楽思考」として培われてきた理論こそ、こうした「悟性」のあやまちに陥っていると言えるかもしれない。
一般的な「音楽思考」の枠組みとは、たとえば楽曲の構造分析に際し、
「この曲の第1主題はこの場所においてまず呈示され、さらにこれこれの場所で展開され、その後、第1主題と対照的な第2主題がこれこれの場所で登場し、ふたつの主題が展開部において相拮抗しながら絡み合っていく」
などといった言説がなされる。
「主題」として規定されたメロディーのかけらを、空間的に配置しなおすことではじめて、人は楽曲を把握する事ができるとでもいうように。
こうした「音楽思考」は、たぶんバロック時代、バッハのあたりではっきりと姿を現したものだ。J.S.バッハは「主題」を悟性的に配置する方法をとことん追求し、「空間配置の技法」の頂点として「フーガの技法」を生み出した。西欧バロック時代とは、このような、空間的構築意識=悟性の顕在化の文化であったかもしれない(しかしそこには悟性と非悟性的なものとの混交による「歪み」が確かに見られる)。
この空間配置の技法はやがて単純化へと向かい、古典期においてより素朴でダイナミックな構造思考、「ソナタ形式」の力学へと変容していく。

一方J.S.バッハの音楽には、フーガにおいてさえ、こうした空間配置の技法とは異質な部分が見られる。
それは主題呈示部よりむしろ、展開部において明確なのだが、高橋悠治氏が次のように指摘した点である。

バッハのフーガはフーガになろうとしているリチェルカーレで、音楽が主題をはなれると、はるかに生き生きして自由なあそびにはいっていく。ほかの調子でまた主題があらわれるのは、そのあとであたらしいエピソードをはじめるための口実といえるくらいだ。
高橋悠治「失敗者としてのバッハ」(1973)平凡社ライブラリー『高橋悠治コレクション1970年代』所収

これはかなり極論に過ぎると思うが、逆説的にバッハのフーガの本質的な魅力を開示してしまっている。

一般に即興性と呼ばれるもの、音楽創造のまさに「運動的」な部分、流動的な音生成の動き、これは空間的認識を得意とする伝統的な「音楽思考」からはこぼれ落ちてしまいがちである。
運動としての音楽の流れの中では、実はメロディーとは数小節では終わらない、延々と延長されてゆく長い線であり、それを細かく切り刻んだ末に言説の対象とするならば、大きな流れとしてのメロディーの生命をとりのがしてしまうのではないか。
この「運動としての音楽の側面」は、バッハに限らず、後続のどの作曲家の作品にももちろん見られるわけだが、バッハにおいては、悟性的なものと、そこからはこぼれ落ちる意識の運動性(即興性)とが火花を散らすように同居しており、そこに魅力的な緊張感が生まれているように感じる。

生成の運動性というものは、別にキース・ジャレットにならなくても、ふつうにわれわれがピアノの即興演奏を何気なくおこなっても出現するし、シュルレアリスムの「自動記述」もそれの極端な事例だし(しかしその試みは決して成功しなかった)、ポロックの絵画の方法論にも顕著である。

さて自然発生的な民衆の「歌」というものは、基本的に即興的な流れによるものと思う。
そこでは「旋律・動機の繰り返し」(特に遊び歌など)も見受けられるが、近代西洋におけるような意味での「構造的な思考」と呼びたくなるものはない。しかしだからといって「構造がない」とは言えないだろう。そこではある音程の繰り返しや調性への吸引も見られ、だから音楽学はそこからナントカ旋律、といった解説を引き出すことができるのだ。
自然発生的な歌なり言表なりがおのずと構造を形成してゆくとき、それは悟性や知的営為からは遠い場所で自然と生じてくるのだが、歌い手や聞き手が記憶の作用を喚起された際にのみ、特定の動機はおのずと反復される。ここでは反復は空間配置の技法に基づいた知的操作ではなく、心的欲求に基づいた再認の要請なのだ。(同じフレーズの繰り返しを全く伴わない長いメロディーなどというものは、早口なおばさんの饒舌のように、ただ単に退屈なのだ)
つまり近代西洋芸術が自意識過剰に悟性的・知的な操作をエクリチュールに加えるのとは違った仕方で、非西洋的なものは異質な構造を獲得することができる。

そのような非悟性的な構造を知的に分析しようとすると、われわれは結局悟性の陥穽の中に陥ってしまうのだろうか。
空間の設計図ではない、時間と運動の設計図を、私たちは知的に描き出すができるのだろうか。

精密な時計を世界一周させたとき、もう一つの時計の時刻とのあいだにズレが生じるという。この有名な実験はアインシュタインの相対性理論のうち「運動しているものの内部で、時間は遅延する」という点を立証しているとされている。
運動するものが運動しないもの(厳密に言って、まったく運動しないものというのはあるのだろうか?)と決定的な差異を持つという点で興味深いが、運動そのものとしての音楽は、確かに、何らかの力場を生み出し特異な時間体験をつくることに意義があるような気がする。注意力や記憶作用の個体差によって、楽曲の「時間」は個々の受け手に応じて伸びたり縮んだりもするだろう。そしてまた、聞き手の一人一人の意識が異なった時間をそれぞれに生きている「動くもの」であると考えたとき、それらの時間と音楽的な時間とのあいだで生じる「同時性の崩れ」は多義性という表象のあり方として、現前してくるのかもしれない。そんなことを夢想してみると楽しい。

私はあくまでも、現在取り組んでいる作曲(試行錯誤のさなかで何度も破棄され、遅々として全然進まない!)をめぐって、思考の迷宮に取り憑かれており、その幾つかの考えをこのようにまとまらない文章で、今日は残してみた。

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