ベルクソン哲学
written 2007/5/23
最近アンリ・ベルクソンを読み返しているのだが、持続、時間、「動き」に関する根本思想はなかなかおもしろい。
まさに持続し、「動くもの」であると言える音楽芸術については、ベルクソン哲学を援用してみるとおもしろいかもしれないと思った。
しかしベルクソンについては、高校生の頃すでに私はつまずいてしまい、以後数冊読んだものの、どうもあまり興味を持つことができなかった。
それは岩波文庫で出ている『笑い』という本に、どうも納得がいかなかったためだ。
「これはちょっと違うんじゃないかなあ」と高校生のくせにベルクソンにケチをつけたのである。『笑い』はその後読み返していないので、今読んでどう感じるかはわからないが、当時は多いに不服だった。
今でも全面的にベルクソン哲学を支持したいとは思っていない。
ベルクソン以後、20世紀ヨーロッパには「哲学者」らしい哲学者はあまりおらず、批評家ないし「思想家」ばかりが活躍したわけで、まあ「最後の哲学者らしい哲学者(形而上学を語りうる哲学者)」として、ベルクソンのポジションは評価できるだろう。
だがベルクソンの著作を読んでいると、いかにも「常識的」な言い回しがところどころ出てきて、そのため20世紀「現代思想」にはない「わかりやすさ」があり、こんにちベルクソンを支持している人たちもそのへんに惹かれているのだろうが、私などは、そうした「常識」内での言説の展開のしかたには「懐疑と批判がたりないのではないか?」という疑問をどうしても持ってしまう。
わかりやすすぎるだけに、どうもうさんくさい。
このうさんくささは『笑い』に感じたものとどこか共通しているかもしれない。
つまり、私のようなど素人にすら、彼の文章には突っ込む隙が沢山あるように見えてしまうのだ。
こう書いてみても、私は哲学者ではなく、哲学の学習者ですらなく、ベルクソンを批評しうるほど読みこんでもいないので、ただ無責任な「感想」を吐いているにすぎないのだが。
ともあれ、時間に関する中心概念は実におもしろいとだけ言っておこう。
ヒマを見ながらもうちょっと読み返してみます。