イーゴル・ストラヴィンスキー
written 2007/2/28
Stravinsky, Igor (1882-1971)
天才的な才能という言葉を喚起せずにはいられないのは、たとえばストラヴィンスキーの作品に接したときだ。
節操がないくらいに様々な書法を試しながらも、どの作品も見事に一貫して「ストラヴィンスキー」に違いないのだ。
世間ではごく初期の作品にすぎない三大バレエ音楽、特に「春の祭典」ばかりをもてはやしているが、もっとあとの作品を追って聴いてみたとき、「春の祭典」はストラヴィンスキーにしてはずいぶんこけおどし的な要素が強く、いわば「派手すぎる」感じがする。ただ、「野蛮」でありながらも精緻で、いつものように「乾いた」その質感はさすがであり、わかりやすい傑作であることを否定はできない。ただ、「乾き」の程度でいうと、まだ「三大バレエ」の時点ではさほどではないように思える。
その後、新古典主義時代に入ってからの作品も、古典的なようでいてどこか屈折しており、そして容赦なく「乾いて」いる音楽性が魅力的だ。その質感は晩年の音列主義時代まで変わらない。
比較的小編成で書かれた、室内楽的な作品群が、極めて「線的」なストラヴィンスキーの特色を示しており、強く惹き付けられる。
さて私がいうこの「ストラヴィンスキーの乾いた線」とは何か。その線は細いが強く、あるときは荒いが精緻でもあり、響きの中で溺れることはなく常に覚醒し、背後の「厳しさ」を絶えず意識させる。武満徹の「弦楽のためのレクイエム」に接したとき漏らしたという「厳しい音楽」というつぶやきは、まさにストラヴィンスキー自身の特質でもなかったか。
このような線はピカソのデッサンやエッチングの、あの天才的な細い線を連想させる。スタイルの変化という点でもストラヴィンスキーとピカソはよく比較され、たしかに不思議な類似を示しているのだが、天才性としては、私の判断ではピカソの方が上だ。音楽の世界でストラヴィンスキーが果たしたことの方が、どうしてもちょっと物足りなく思われるから。
それでも20世紀音楽の中にあって、ストラヴィンスキーの作品はたしかに「異様に天才的」に見えることには変わりない。
春の祭典 (1913)
この作品のスキャンダル性は、コクトーが指摘したように、たしかに企まれ、「しかけられた」ものだったろう。ストラヴィンスキーの音楽はここではどうも派手すぎるし、無駄もあるように感じる。このエクリチュールはまだ「ぎりぎり」ではないのだ。
このリズム書法が実にすばらしいということは事実だが。
ピアノ・ソナタ (1924)
バッハやベートーヴェンあたりのスタイルを模倣したらしい作品。新古典主義時代の最初のもの。
無調的でありながら調性を用いた妙な響きとリズムがおもしろくて、一時期やけに気に入って聴いていた。楽譜を入手したとき、まるで即興で、恣意的に書いているような音符群だということに驚嘆した。
詩篇交響曲 (1930)
これもポピュラーとなった曲。なかなか感動的な印象があり、人気を博すのも当然かもしれない。厳しさも同時に感じられるので、私も好きだ。ちょっと壊れたバッハみたいな第2楽章のフーガが魅力的。
三楽章の交響曲 (1945)
「春の祭典」が忘れられず新古典主義時代のストラヴィンスキーを物足りなく思っていた聴衆が久々に歓迎した作品。人々はどうしてもストラヴィンスキーに「野蛮で、原始的で」あってほしいと思っていたらしい。しかしストラヴィンスキーの野蛮さというのは、意味内容的な野蛮さの記号表現ではなくて、かれがえがきだす「線」の強烈で、天才的としか言いようのない強引さにあると思う。才能とは、暴力なのだ。
レクイエム・カンティクルス (1966)
最後の作品で、12音主義に基づいている。響きは節約されており、シンプルで地味だが、不思議と心に刺さってくるような音楽だ。