ドビュッシーとかなしさ
written 2004/2/26 [ updated 2006/5/26 ]
クロード・ドビュッシーの音楽には、「かなしさ」が欠けているのではないか。と、ふと思った。
「かなしみ」に必要なのは「短調」などというのは短絡的にすぎるが、ドビュッシーの音楽は、そういう基本的な情感を削ぎ落としていって、あたらしいファンタスティックな響きを獲得したようにも見える。得たものは、新しい地平としての和声、新しい値打ちをもつ音だが、(古い意味での)歌謡性をも削ぎ落としながら、漠然と抜けていったのは「かなしさ」ではなかったか。
比較的初期の「ベルガマスク〜月の光」なら、演奏しながらでも、聴きながらでも、無限のかなしさを感得することは可能だ。だが、これはほとんど稀有な例であって、ドビュッシーの歩みは、こういった情感をたしかに失う方向に進んでいた。この曲がこんなに人気があるのは、ドビュッシー独特の美しさのなかに、「かなしさ」を投影できるほとんど唯一の曲だからかもしれないのだ。
伝記的な事実からかすかに匂ってくるのは、この天才的な作曲家の権威主義的(しかし、まずは自分が権威であったのだ)特性で、この人は他人を容赦なく批判し、嘲り、いっそ不埒になることもできた。
その音楽には攻撃的な権威主義の匂いはないが、弱さもない。
弱さがないから、「かなしさ」がないのか。
日本文化の中枢神経は「かなしさ」なのかもしれない。
古い歌から漫画「北斗の拳」に至るまで、日本人は「かなしさ」が大好きで、しかもこれの範囲は非常に広い。
演歌的な泥臭いかなしさ、陰湿なかなしさ、乾いたかなしさ、高貴なかなしさ、・・・・。
海外のカーニバルと比較したとき、日本の「祭」の音楽は、なぜあんなにもかなしく聞こえてくるのか。
武満徹などはドビュッシーをめざし、後期はいよいよ似てきたけれども、ドビュッシーになくて武満にはっきりとあるのは、やはり「かなしさ」だ。
もしかしたら私が言っている「かなしさ」は、欧米人には理解しづらいものだろうか。
ショパンもかなしいが、日本的なかなしさはちょっと違うかもしれない。
どちらかというと、モーツァルトのクラリネット協奏曲に聴かれるようなかなしさが、日本人向けかもしれない。
ドビュッシーに戻るが、単純に彼の和声が短調的なものを排除したこともおおきな原因かもしれない。
ストレートな「短調」はすぐに俗っぽくなってしまう。だから、ロッカーたちは短和音の第3音を忌避することで、近代和声がなしたことの代替策を実行する。
モーリス・ラヴェルは「かなしさ」を知っており、要所でそれを活用することができる。
彼は俗っぽくなることをおそれなかったから。
ついでに言うと、ロシア音楽にはやはり、「かなしさ」があふれている。これは重苦しさが強調されたかなしみで、スクリャービンの音楽にもよくあらわれている。ストラヴィンスキーはそれをすべて、乾燥した、無色の
エネルギーに変換してしまったが。