できごととしてのフーガ
written 2003/6/24 [ updated 2006/5/26 ]
2003年の「前奏曲とフーガ・4」を書いてから考えたこと。
しかし、「前奏曲とフーガ・4」で私が行ってしまった場所では、すべてが混然としながらも、最初から最後までが単純な構成原理に則っている、という現象が起きている。
この曲のフーガを書きながら実感していたのは、「なぜ、フーガなのか」ということだった。
この曲の前奏曲部分はこのままではあまりにも短いが、このペースでどんどん展開していけば、それはそれで1個の作品構造ができあがるに違いなかった。だから、「なぜ途中からフーガにならなければいけないのか」という問いが浮上してきた。
実はこの曲の構想では、最初にフーガ主題があって、「これでフーガを書けるな」と把握した後で、この主題を解体し、音列化することで、「前奏曲」が生まれてきた。
これまでは、ここまで考え抜いた構成をしたことはない。
主題を音列として捕らえ直し、フーガの第2主題「和音形」や、更に変形した「和音連打形」(この形は最初から計画していたにもかかわらず、 悩んだ末、結局は使用しなかった。その代わりに、単なる16分音符単音の連打形が登場した)を構想しながら、前奏曲部分を書いた。
このような構想のもとでは、致命的に何かが欠如してしまう。それは「できごとhappening」である。
私の考えでは、フーガは、本来「できごと」である。
ベートーヴェン以降の、ソナタ形式等の様式は、私には単なる「物語」に見える。つまり、既成のコードに依拠した、レトリカルな「表出」だ。
この「フーガ=できごと」という着想については、これから私は熟考し、書かなければなるまいが、とにかく、今回の作においては、この「できごと」の生成がうまく行っていないような気がする。
あまりにも、周到に準備されすぎているのだ。(これは語弊があるだろうが)
だいぶわき道にそれたが、前奏曲「と」フーガとのコンビネーションの意義が溶解しつつある今、私はいったん「フーガ」それ自体の構造を問い直す必要があるのかもしれない。