46歳の年末 - すべては滅びゆくと思うころ
written 2015/12/27
久しぶりにここに記事を書く。
毎回年末には、このサイト上に「今年書いた作曲リスト」を載せていたが、今年はたぶん書かないと思う。
なんとなくそんなことがアホらしく感じられるようになったのは、去年から作曲コンペや作曲公募に出すために作曲することが多く、それらは(完全に他の募集へも出品することを断念しない限り)おおむね公開出来ないから、リストだけ公開してもあまり意味がないからだ。それに、コンペ等で全然結果を出せないことで(もっとも、惜しいところまでは行った作品も幾つかあったようだ)、私の作品の音楽界上の価値は大体知れてしまったし、もったいぶって「自分史」を気取って見せるのもいい加減恥ずかしくなってきた。
とはいえ、未公開でない作品について、ちょっとだけメモしておこう。
今年は(株)musicalisland P & Dさんの委嘱で書いた奇妙な作品「おしり」が夏に東京で初演されたが、もちろん音楽の冗談もおふざけもエンターテイメントも私は決して否定しないものの、これはちょっと「私の音楽」と呼べるかどうか怪しいものと思われた。私が正規の作品表を書くとしたら、この作品はたぶん載せないだろう。
一方、ヴァイオリン独奏のやや長大で演奏困難な作品「Sagittarius」はナポリのダニエレ・コロンボさんがまたも録音してくださって、YouTubeで公開されている。コンサートでは初演されていない。
コンペ類とは関係なく書いたピアノ曲「Splash of Fire」(23の前奏曲のひとつ)は、私は気に入っているのだが相変わらず誰も弾いてくれていない。
そういえば、海外の演奏家の方から「こんどあなたの作品を演奏します」というお知らせを3件ほどいただいていたのだが、すべてポシャったのか、その後の連絡はない。まあ、それも仕方ないだろう。演奏家は自分の好みと価値観で作品を選ぶ絶対の権利を持ち、それをなんびとも邪魔するべきではない。
ピアノとVocaloid(ミク)、エレクトロニクスのための「Concertino」は比較的娯楽に傾いた分かりやすい作品だったと思うが、ちょっと譲歩しすぎたのか、作品の評判はあまり良くないようだった。演奏会をイメージして書いたものだが、これも演奏されることはないだろう。誰かは自宅で「カラオケ演奏」を試みてくれているかもしれないけれども。
あと最近書いた初のギター独奏曲「Wandering Ship」は、ギターのことをまだよくわかっていないゆえのぎこちなさも当然見えるが、今後しばらくギターのことを研究しながら、このすこぶる繊細な楽器(武満徹の志向にもっとも似合っていたのはこの楽器だと思う)のための曲をぼちぼち書いてみるのも楽しいかもしれない、と思っている。数年前に初めてのヴァイオリン独奏曲「Seiren」を書いたときのことを思い出す。あれからいくつものヴァイオリン独奏曲を書くことになったが、それは楽器について勉強しながらの作業であった。未知の領域に踏み込んで、いろいろ新しいことを学んでゆくのは楽しいことだ。
私が人生の上で全体的に不運なのは、たぶん私が罪深いバカだから当然で、報われないのは努力が足りないからで、友人がいないのは人間的におかしいからで、書いた音楽が認められないのはヘタレで見当外れで未熟だからだと知っている。生きていてもしょうがないなあ、とは思うものの、家族のことを考えるとまだそれも出来ない。私は「そもそも私がいない世界」に生きてみたかった。
ところで、そんな個人的なことよりも、安倍自民政権の強行的でファシズムめいた政治手法が、暴力的に炸裂させる数々の事象(強行採決、暴言、虚言、圧力、国民無視、利権重視、弱者虐待)にうんざりした1年だった。しかも世論調査を信じるならば、半分くらいの国民がなぜかこんな大嘘つきで金権利得にまみれ、庶民のことなど切り捨てることしか考えない(けど選挙が近づくとアメを振りまく)政権を支持しているということは、まったく信じがたいことだ。ネトウヨはもちろんだが、メディアおよび大半の日本国民の知性の猛烈な劣化に絶望以外できない。
この国はもう救われないと思う。また痛い目に遭わないと日本人はわからないのだ。いちど滅んでみるしかないのかもしれない。賢明な人は国外脱出を考えておいた方がいいだろう(これは外国の著名な経済アナリストも警告している)。私はカネがないので難しいけれど。
これまで私は政治とは距離を置いていたかったのだが、そんなことを言ってられない時勢になってきている。丸山眞男の言うように、何もしないのも、何も言わないのもひとつの政治的表現であり、現代社会においては誰も政治から逃げることはできないのだ。そしてもはや、ぼんやりと投票だけしていればよいという状況ではない。テレビや全国紙が政権の圧力で屈服させられ、コントロールされている現在、国民はみずから情報を集めるべく努めなければならない。たとえば自民党に投票する少なからぬ国民は、党のウェブサイトに掲げられている「自民党改憲草案」という、基本的人権を否定し・自由と民主主義を実質的に放棄しようという思想のマニフェストをちゃんと読んだことあるのだろうか?
安倍自民政権は既に、民主主義も立憲主義も破壊し始めている。そんなときに、TVのゴールデン枠では「海外から見てニッポンはいかに凄いか」なとというくだらない・気持ち悪い番組ばかりが流され、大半の庶民はそんな状態に飼い馴らされて、ぼんやりとしたナショナリズムへと向かっている。
だから、日本人には民主主義はムリだったのかもしれない。GHQが民主主義のレールを敷いてくれたのだが、それを破壊しようとネトウヨ政権が暗躍している。それを指示している国民の不気味さ。日本人には「死」が似合いすぎている。
そんな政治状況から今年は、改めてロック、ルソー、ミルなどを読み返したり、政治・社会に関する本も最近多く読むようになった。
カール・ポランニーの思想はなかなかに魅力的だ。彼はマルクス主義者でも共産主義者でもないが、「市場経済」(自己調整的な市場が社会の中心となり、その市場において土地も労働も価格が決定され、売買される――つまり人間も取引の対象でしかない、といった経済)が決定した価値の序列が、社会のあらゆる領域を侵食してしまう状態を痛烈に批判している。しかしそのカール・ポランニー(1886-1964)も予測し得なかったことだが、21世紀初頭の現在に至るまで、この「市場」資本主義はますます勢力を強め、拡大してきている。
米国はもちろんだが、日本も完全に「市場」資本主義に飲み込まれてしまっている。
たとえば音楽で言うと、現在の日本経済においては、バッハよりもAKB48の方が遥かに価値がある。バッハ好きなクラシックファンは「現代音楽」ファンに比べればずっと多いが、AKB48のCDの販売数とは比較にならない。AKBのCD商法はオタクがひとりで膨大な枚数を買うように仕掛けられており、そういったシステムは「音楽」を馬鹿にしているようなものなのだが、「市場」が決める価値が絶対である現在の社会においては、やはりバッハは音楽産業において小物でしかないのだ(バッハなどクラシックは、映画やアニメのBGMのワンシーンを彩るためにはよく「利用」されてはいる)。この社会でバッハを賞賛することは「許される」が、決してメインストリームの言説とはなり得ない。それは大衆全体を司る中央演算装置にとっては無視しても良い「周縁」でしかない。
周縁のマイノリティにも市場はそれなりに場所を提供してくれるのだが、市場経済にもとづく社会構造が常に人間を「統計」上の単位としか見ていない以上、統計学的に切り捨て可能なノイズと見なされるため、大分類上での確かな「価値」のシールを貼ってはもらえない。
このシステムにおいては、簡単に悪貨が良貨を駆逐する。嫌韓・反中のヘイト本や、「日本」をひたすら褒め讃えるだけのマスターベーション本がベストセラーになり、曾野綾子や百田尚樹のようなネトウヨレベルの作家の本がよく売れるならば、それに対してカントもヘーゲルも無価値なのである。庶民が賢くなければないほど、悪貨が勝利を早めるが、庶民を愚かにしているのも、「市場経済」システムがもたらす格差社会・および「余裕のない社会」なので、連鎖は無限に続く。
だから儲けのない伝統芸能を切り捨てる橋下徹的スタンスが、このような社会に心を汚染された人々のシンボルになるのだ。
(しかし私はポピュラーミュージックなどいわゆる大衆的な文化を批判しようとしているわけではない。本当に皆に喜ばれるヒット作には、それなりに良いところがあるはずだ。現在のサブカルチャーは非常に洗練されており、過去の芸術の成果をも巧みに活用しているわけだから、その点は好ましいと思っている。いくつかのポピュラーミュージックは、本当に好きだ。現代音楽に踏み切れずにもたついている懐古的なクラシック調の音楽なんかよりも、ずっと好きだ。それらはやはり、現代の人間の心象を上手に捉えており、時代の空気が流れている。
私が批判しようとしているのは、市場原理によるランキングをそのまま社会の普遍的価値と見なすような、機械的な価値観の形成である。)
戦争好きな米国が20世紀に中東にちょっかいをかけまくっていたのは明らかに原油の利権を求める行動だった。そして戦争となると軍需産業が儲かり、この大企業が政治家に潤沢な献金を回す。だから政治家も戦争を推奨する。アベ政治の日本もこの歯車に乗ろうとしており、既に原発をめぐる企業や政党・政治家との利権構造は明らかになり始めている(しかしテレビしか見ない国民は何も知らない)上に、今度は三菱など軍需産業との利益共有が図られているわけだ。そもそも安倍政権はアーミテージのようなアメリカの金満家に操られているようだ。
かくして、「市場」の非-人間的論理が、文化を押しつぶし、社会を制圧する。
やはり人類は死のうとしているのだろう。
だが人類全体よりもずっと先に、日本は滅びると思う。もちろん日本よりも先に、私が滅びるはずだが。
自分のことを語っても、社会のことを語っても、もはや「死」にしか結びつかないようだ。次はまったく別のことを書いてみよう。