item テレビドラマの消費スピード - 上戸彩主演「アテンションプリーズ」を見て

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written 2013/5/12

 映画「あずみ」(2003)「あずみ2」(2005)を見て、「刺客」としてサバイバルしてきた筈の少女がこんなに髪をきれいにセットしているなんてありえないし、時代と設定から当然出てきそうなエロもないなあ(あとで原作をちらっと見たら、やはり少しあった)、さすがにアクションはアメリカ映画みたいなキレがなくて甘いなあ。と思いながらも、上戸彩さんはなかなか可愛いな、と目を付けた。
 それ以来少し(いまさらながら)上戸彩さんを追っかけてみたのだが、前を大きく二つに分けるあの髪型や小柄なところはやはり私の好みで、さすがに歌はあまりうまくない(しかし不可でもない。ここ数年は歌は廃業したようだ)ものの、女優としては演技力は割とあるんじゃないかと思った。胸が大きいらしく世の男性ファンはそこが気に入っているようだが、脚は細すぎて色気とかは感じさせない。ごく最近は大人っぽくなって雰囲気も変わったようだ(現在28歳)が、たぶん私の好みは二十代前半あたりの彼女の顔である。
 で、今度は2006年に放映されたらしいテレビドラマ「アテンションプリーズ」を見てみた。

 そもそも私はテレビはほとんど見ないし、とりわけテレビドラマ(昔はトレンディドラマなんて言ってた)など見る人々を若いうちには軽蔑していたこともあった。おそらく「連続ドラマ」を見通したのは今回が初めてだろう。
 しかし、これは面白かった。笑ったし、素直に感動して泣きそうなところもあった(私はたぶん感動しやすい人間である)。
「こんなものはくだらない」と切って捨てる人はかなりいるだろうし、それはそれなりの反応だと思う。私も音楽に関してなら、あまり俗っぽいものは容赦なく批判する。しかし世界にはさまざまな層があるものだ。音楽に何を求めるか、という各レベルにおいて、人さまざまのコンテクスト、価値判断があり、結局のところどれが絶対ということもない。
 テレビドラマは映画とは全く異なるロジックに基づいている。より多くの層の「大衆」に受け入れられなければならないし、「視聴率」という数字に支配された世界なので、そのためにあらゆる努力が払われる。毎回50分の枠内で起承転結をテンポ良くすすめ、多くの人の興味を引き、かつ、極限まで平易でなければならないし、「途中から見てもそれなりにわかるし、楽しめる」ようにする必要もある。
 上戸彩さんはもともとボーイッシュ寄りのキャラクターで、自身がロック系のブラックなカラーを好んできたと思われるが、このドラマでの彼女の役はあまりにもぶっとんだ、「ロックな」ハイテンション女である。そんな彼女が航空会社(JALが全面協力したようだ)のキャビン・アテンダント(いまはスチュワーデスって言わないのか・・・)になるという、「ありえない」話なのだが、こういう「ありえなさ」(スキャンダラス性)は恐らくテレビドラマでは必須の要素なのだろう。全体としては成長物語なのだが、女性特有の「何かになりたい」という変身願望の実現ドラマとなっている。
 男性として冷静に見れば、ロックでぶっとんだヒロインが、「訓練」によって去勢され、カドを切り落とされていく過程である。男はもっと「自分のままで」押し通して暴力的に成功を獲得したいと願っている。いっぽう、世の女性たちはもともと、「変身」するためにわけのわからないエステだのダイエットだのメイクだの、絶え間なく「努力」しているようだから、このドラマはそうした変身プロセスを、デフォルメして表出しているといえるかもしれない。
「大衆的」なテレビドラマは、経済状況とリンクした「現在」の「大衆的世界」、そしてそこに固有の「倫理」を、収斂する先として見定めなければならない。そこから逸脱することはありえない。
 このドラマで表出されている倫理は、とりあえずおおむね、負けずに努力を重ね、よき仲間、よき教師と出会うことができたら「変身」は成就する、といったところだろうか。もっと表層の部分を見てみると、がさつなロック少女とキャビン・アテンダントという組み合わせのギャップの面白さの繰り返し、テンポ良く次から次へと繰り出される「見せ場」は、そのスピード感覚が、あたかも記号・情報あるいは金銭・財の、現在のすさまじい消費スピードの謳歌と一致している。たぶんテレビドラマというものが最も強調するよう命じられているのは、この消費スピードにあるのだろう。

 
 V.E.フランクルはなんども繰り返し「人間は意味を求める」と強調した。しかし意味とは何か。むしろ「意味」と言ってしまうと語弊があるのではないか。絵画や音楽は、言語的な「意味」とは違うところで価値的な構成物を創造してきた。「人間が求めているもの」は、言語的な「意味」である場合もあれば、無-意味的なシニフィアンである場合もある。
 フランクルを修正して言うならば、たぶん我々が追い求めずにはいられないのは、言語的あるいは非言語的な<意識>レベルでの統合作用である。世界-対-自己におけるあいだを満たし、それを総括しうるような統合/結合のゲシュタルトである。
「失われた世界とのつながり」を一瞬でも取り戻すために、私たちは時に「物語」を利用し、「音楽」を利用する。しかし「物語」などが疑わしく、嘘くさく見えてしまう時代には、すべてを消費スピードによって活性化させる必要がある。その速度においてしか、我々は何も共有しあえないし、存在としての自己統合を果たすこともできなくなっているのだ。これが現代の「倫理」にほかならない。
 おそらく、テレビドラマはそのような速度において消費されるべき「記号の束」である。深甚な何かが残ることなど必要ではないし、そんなものはむしろ邪魔なのだ。これはPOPソングの論理も同様である。
 ドラマ「アテンションプリーズ」は細かい部分で笑わせ、感動させながらも、最終的にはヒロインのもろもろの表情だけをイメージとして残していくだろう。
 劇中の役と同様、上戸彩さんもたぶん「さっぱりとした」ボーイッシュな性格を持つのであろう。この「さっぱりとした」感じは、このドラマ自体の感触として記憶される。それは凄まじい世の消費スピードに合致しているのだ。

 いや、ふつうにドラマ「アテンションプリーズ」は面白かったです。上戸彩さんは魅力的だし、演技もずいぶんがんばったと思う。

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