「9b2_ISIS」、音楽と記憶
written 2010/9/27
前作(「Intanalia」)が妙に気張ったものだったので、新しい曲「9b2_ISIS」は逆にリラックスし、気楽に作った。
当初「アンビエント」のイメージだったが、結果的に、世に言うジャンルとしての「アンビエント」とはかなり違うかもしれない。しかし今回はかなり「ゆるい」感じの曲だと思う。
ここでも転調/複調と変拍子を多用しているし、あまりにも穏やかでキレイになってしまった部分には、あとから敢えて妙な音を挿入したりしたので、やはり素直な音楽とは言えないだろう。だが、基本的には調性音楽である。
雰囲気的に「Waves」「Melancholie」に「Intanalia」を足して通俗っぽくし、穏やかに平坦化したような感じか。
タイトルはまたもや無意味だが、エジプトの女神の名前「イシス」が入ったのは、ちょうどプルタルコスの『エジプト神イシスとオシリスの伝説について (岩波文庫)』を読んでいたためだ。
音源:http://www.signes.jp/musique/Prism/9b2_ISIS.mp3
掲載ページ:http://www.signes.jp/musique/index.php?id=689
私は最近の自分の音楽の構成法を「限りなく変化を求めてゆく流動性」として企図している。
A→Bといったん変化しても、ふつうはやがてAに戻り、作品自体の自同性を維持するものだが、私はアイデンティティなるものに反抗しているので、A→B→C→・・・というふうに、どんどん遠ざかって後ろをふり向かないようなフォルムにこだわっている。
これは「まだ見ぬ他者」の衝撃を求めて永遠にさまよう存在の仕方にも関係すると同時に、実は、ベルクソン哲学と西洋古楽(中世・ルネサンス時代の音楽)から着想したものだ。
だがリスナーはそうではなく「作品自体の同一性」を常に求めているのではないかと、今更ながら気にするようになった。
作品を印象づけるためには、やはり旋律などの「再帰」が必要なのだ。ただ単に「どんどん推移していく」形だと、リスナーもそのまま通過していってしまい、とくに印象も残らないらしい。
これはたぶん「記憶」というものが重要な問題として残っているということにちがいない。
人はじぶんの「記憶」の作用によって、「自己同一性」にしがみつくし、自己の人生を物語化する。
じっさいには「記憶」の中身やその呼び出し方も、常に変動していくものなのかもしれないのに、人は内的な「自己同一性」を信じて疑わない。「ブレードランナー」のレプリカントでさえ記憶を持ち、記憶をもとに自己同一性を守っている。主体は何かを構築するために、つねに自己の記憶を参照する。この作用はすこぶる人間的である。逆に記憶の機能が何らかの器質的損傷によって破壊されると、まるで人格がかわったような言動をする。
音楽の場合だと、少し前に出てきた旋律を再帰させることで、旋律の印象を強化してやるのが一般的だ。繰り返されればいやでも印象づけられる。だからテレビのドラマ、アニメなどの主題歌とか、TVコマーシャルの音楽は心にのこる。ひとつの楽曲でも自慢の部分は繰り返されるのが、ポピュラーミュージックでは常識だ。
しまいにはミニマルにまで至るこうした「反復」によって音楽は一個の自同性となり、執拗な強迫となって(この種の手口はほとんど暴力である)、リスナーの脳への「生き残り」をはかる。
こうしてみると、「反復」による記憶の補強機能を活用した方が、一般的なリスナーにとっては「心にひびき」やすい。20世紀後半以降の「現代音楽」がワカラナイと言われるのは、主題旋律自体が覚えにくかったり(音列に至っては、楽譜を見ないとふつうの人にはほとんど把握できない)、楽節の素朴な反復を避けているせいだろう。
今回の曲「9b2_ISIS」では、旋律回帰は最後の方で少しある(ただし、要所要所の和声や旋律自体が、反復構造をもっているため、わかりやすく聞こえるだろう)だけで、無限変容的な構造破壊の路線を引き続きあゆんだが、そろそろ私ももう少し「記憶」の活性化を利用しながら、なにか新しいことをやれないものか、と考え始めたところだ。「リスナーに印象づける=強迫する」ってのが、音楽の本来の役目とは思えないのは確かだが、執拗なむき出しの反復が何かのメッセージとして感じ取られるエレクトロニカのようなジャンルが、確固として存在しているのを見ると、そこにやはり何か切実な現代性があるのに違いない。