もうそんなに作れない
written 2010/8/12
twitterなどでDTMerの方々の様子を見ていて、みんなほんとによく作るなあ、と感心する。息つくひまもなく、次から次へと作っている。
私も若い頃は、そうやって次々と書いた時期があった。
しかし自分がそうそう作曲できなくなってきているのは、歳のせいばかりでもない。
いろんなことを考えていると、そうそう音楽を量産する気になれなくなってしまったのだ。
たとえば「今回はサンバっぽく明るい曲をつくる」「次はジャズっぽくしてみよう」などと、表面的な特徴を曲ごとにチェンジしていけば、かなりの数の楽曲をどんどん書くことができる。私も若い頃はそんなふうに作っていたことがあった。
こういったやり方は、一定の文化内に既定のカテゴリをただ巡回していけばいいわけで、さほどこだわりなくポピュラーミュージックの世界を遊泳したいだけなら、これで一生やっていけるのだ。
自分がそうした操作に飽き飽きしたのはいつごろだっただろうか。
たぶん、バッハ由来の「対位法」を自分なりに追究しはじめ、お手本のない、未知の音楽の世界をめざし始めたあたりから、作曲することがラクではなくなっていったのだと思う。
「サンバっぽく」「こんどはジャズっぽく」等々とスタイルをちょっとずつ着替えてゆく作業は、確かにそれはそれで楽しいのだが、ラジカルに言うと実はあんまり代わり映えがせず、退屈だ。
一定のリズムの反復に、どこかで聴いたようなメロディーの亜種を乗せ、保守的なコードを適当に充填する。どう装いを変えようと、この「基本形」が決して破られることがないのである。これにすがっている限り、サンバだろうがジャズだろうがダブだろうがハードロックだろうが、実はみんなおなじことの繰り返しにすぎない。気楽にやっているうちはいいが、いったんこのことに気づいてしまうと、新たな道を見つけない限り、果てしない自己模倣に嫌気がさしてしまうはずだ。音楽産業に乗っ取られたポピュラーミュージックなる言語体系、いわばおシャカ様のてのひらの上で遊ばされてるだけだ。自由なつもりで、決して自由でない。既製の構造にがんじがらめだ。
一方クラシック音楽の絶対音楽的な考えを身につけ、知見を広げていくうちに、メロディーに対して別のメロディーをいかに重ねるかとか、ドビュッシーや無調音楽を経由した現代において、ゆるゆるな調性音楽をそう簡単にゆるすことができるのかとか、2ー4ー8小節ごとにキレイに分節を繰り返すことがマンネリすぎないかとか、さまざまな疑惑に襲われ、やがて身動きできないほどの課題の山積に圧倒されてしまう。
こうなると新作を作る前に相当考え込まなければならないし、考え詰めたとしても新たな音楽を試みる方法を、いつも発見できるとは限らない。
そもそもおシャカ様のてのひらからいかに脱却するのか。
反抗心からやみくもに暴れようとすると、ダダイズムとか、とりあえずパンクとか、ヘビメタとか、要するにグレた思春期小僧みたいになってしまう。
そこに理論的に、自己の体系らしきものを作ろうとすると、シュルレアリスム以降の現代芸術に見られたような、さまざまな「仮説実験」を重ねることになるだろう。
前衛の時代は終わったはずだが、確信をもって歩めるような理想はもはやどこにも存在しない。
そんな感じで、もう楽々と既製ふうな楽曲を連発する気もないが、個人的実験を追究していれば、「みんな」からはどんどん遠ざかって孤独さを増すし、やたらに疲れる。
あれこれの思惑を消し去って、音そのものに改めて向き合うことは無理なのか。
しょせん音楽一切これ「空なり」と達観できなければ、もうどうしようもないような地点まで来ているのだろうか。