健康幻想
... 思考
written 2010/6/4
日本人の普遍的な、時代の感受性は、たとえば「健康」「癒し」などへの「前向き」な姿勢、そういったものの価値観を宗教的に崇拝しているらしい。この感受性はしばしば強迫的であり、「反動」に対する攻撃は、ときにヒステリックになる。
おおざっぱに言うと、論理的な思考が、「道徳律」ないし個人の「倫理」として人々を律することがなくなったため、今やそういう「イメージ」が、あたかも「正義」であるかのようにふるまう。
「健康」幻想の象徴は「サプリ」など商品化されて流通する。「健康」とはもともと単に「病の不在」(あるいは病の秘匿)にすぎないのだが、かぎりない憧れの対象、美しいものとしてたたえられている。これはもしかしたらアメリカの影響かもしれない。社会が病めば病むほど、「健康幻想」への信仰心は凝り固まっていくように見える。
病とは主体や生や世界の断絶であり、裂け目、深淵である。破壊的・否定的なこのものを、社会は全力を挙げて隠蔽しなければならない。
そこで、病そのものを去勢してしまおうという試みも現れ始めた。
「軽症うつ病」患者があまりにも大量に増加し、そこでは「風邪のようなもの」、「誰でもかかりうるもの」という捉え方が流行し、人は一時的にファッションを取り替えるように、気軽に「うつ病」をまとうようになった。「(軽症)うつ病」は現代社会によって去勢された病気である。
ポピュラーソングの歌詞も、圧倒的に「前向き」であることを余儀なくされている。そこで語られる「マイナスなもの」は、せいぜい「失恋」くらいだ。失恋の悲しみも、断絶に至ることなく、一時的なファッションとして表現される。
社会の装置としてのPOPソングの機能とは、ファッションとして薄められた当たり障りのない感情を人々に配信し、共通の情緒(や一種の倫理観)を空間に蔓延させ、個人が内蔵する反=社会の亀裂を覆い隠してしまうことだ。
音楽それ自体もまた、このような社会の体制に合致するものが称揚される。ファッションを流通させるためのジャズ、ロック、パンク、ヒップホップや、「前向き」という強迫心理を流通させるための、当たり障りのないPOPソングなど・・・。それらは一群のイメージを提示し、そこにあたかも「幸せ」があるかのように見せかけることで、商業として成功する。
私は、人々がなぜそんなに「健康幻想」にとりつかれているのだろう、と不思議に思ってきた。彼らが「健康幻想」に反するもの対して示すふるまいはかなりヒステリックだ。喫煙や、「食の安全」をおびやかすもの、不衛生、「カネ」がらみの政治・・・。世論の異様な騒ぎ方自体が、私には「病」に見えてならない。「前向き症候群」という名の病気。
無菌室に閉じこもろうとしている日本人たちを突き動かしているのは、極端な臆病さだろうか?
私の音楽はいつも、むしろできれば他者を「害し」、混乱させ、「病」にめざめさせてやりたいという願望を秘めている。
このような反=社会性は、なるほど、人々の共感からはほど遠いに違いない。
あくまでもマイノリティ、アウトサイダーである私には仲間もいない。
そういえばmixi内に「病としての音楽」http://mixi.jp/view_community.pl?id=5043860という物騒な感じのコミュを作ってみたが、やはりほとんど人は集まらなかった。
自ら「病」であろうと欲望する私のような存在は、社会に容認されることはないだろう。いや、私はすでに「去勢」されているのかもしれない・・・。
だが、人々が虚ろな眼をしながら「健康」を声高に叫び、自己の鏡像としての「毒」を懸命に排斥しているとき、その身振り自体が病んでいるようにしか見えないのはなぜだろう?
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