歌詞の問題
written 2010/3/4
先日完成した「エンドン Endon」(from「断絶詩集」)は、調性的にノーマルな、ふつうの曲を気取ったものだったが、その後アップロードした箇所を観察していると、まあまあ、ごく一部で好評であり、好意的なコメントもいただいたものの、視聴数なんかはそうそう伸びてない。それは私が無名な存在で、ネットの日陰でごそごそやってるムシみたいなものだからだろう。
それは当然としても、YouTubeとかニコニコ動画などで、なかなかコメントがつかない。
後者の方では、「マイリスト」に入れてくれた方は割合的に多いのに、コメントがつかない。他の方の動画と比較しても、このコメント数の少なさはちょっと不思議なくらいだ。
メロディーはそこそこキャッチーでわかりやすいと思うのだが、やはり、問題は歌詞であろうか。
「断絶詩集」シリーズが今のところ、精神医学系の概念でやってきているので、この曲のタイトルも「エンドン」という、テレンバッハ(『メランコリー』木村敏訳、みすず書房)による、たぶん誰も知らないだろう術語を使っている。動画のはじめにかんたんな用語解説も入れたものの、やっぱり多くの人は、この曲の歌詞の意味がよくわからないのではないだろうか。
「断絶詩集」の他の曲(「強迫欲動」「父の名」)はもっと難解でひどい状態だが・・・。
私は歌詞を軽視しがちである。J-POP聴いていても、歌詞なんか全然気にしていない。歌声とメロディ、コード進行、サウンド、リズムあるいはピアノ等個々の楽器の動きには注意を払って聴いているが、歌詞なんてものは二の次だと思っている。
先日から聴きまくっている西野カナにしても、「ケータイって歌詞がよく出てくるなあ」とは気づいている程度で、個々の曲の歌詞の意味内容なんて、ほとんど気にしていない。
哲学書とか古今の文学、現代詩などを読んできた私から見れば、J-POPの歌詞などにはまったく期待していないし、したがって、詞のレベルではどれも五十歩百歩で、せいぜい今の若者たちの気分はこんな感じかなあ、ぐらいの興味しか持てない。本気で引きつけられるような歌詞は、少なくともJ-POPには皆無である。
このように歌詞を軽視する傾向は、クラシックファンにありがちではないだろうか。
クラシックだって、西洋の音楽史では歌曲やオペラがきわめて重要だったにもかかわらず、日本のクラシック愛好家は、やはり純器楽曲から入っていく人が圧倒的だろう。フランス歌曲(メロディー)は、その後私もよく聴くようになったが、オペラ風の歌はいまだにひどく苦手である。
そこから(歌の入らない)ジャズに興味を広げた私は、やはり根本的に、歌詞を軽視する方向性を身につけてしまったのだ。
一方で、ふつうにJ-POPを楽しんでいるリスナーたちは、どうやら楽曲の「歌詞」の要素を重視しているようなのだ。歌を言語的メッセージとして捉えようとしているフシがあちこちで感じられ、その点、どうも私とは隔たりがあるなあ、と思う。
洋楽ファンのなかには、歌詞の意味をあまり気にしない人も結構いるんじゃないかと思うが・・・。
歌詞と音楽の結びつきってのは、難しい。
民俗世界においては、歌詞とメロディーの結びつきは不可分であって、歌詞が従属的という状態は不自然だろう。だから、みなさんの方が正しいのだ。
が、言説(ディスクール)の地平が、どうも私と多くの一般リスナーとでは、あまりに違いすぎる。
三島由紀夫的仮面をかぶるのでもなければ、私は市井の感覚で歌詞を書くことはできないだろう。だから私の歌詞は、人々を拒絶し続ける。たとえメロディーがキャッチーであっても、歌詞によって、人を遠ざける。
とりわけ「断絶詩集」の歌詞レベルはそういう、晦渋な言語空間を設定してあるので、これを放棄するつもりは今のところない。そのうち現代詩的な言葉づかいで市井の感覚をえがいてみるのもいいかな、と思うのだが、とりあえず今は「断絶詩集」だ。
そんなわけで、どんなにPOP化しても、私の曲はやっぱり、人々に受け入れられそうにないのだ。