バッハのフーガについて考える
written 2003/8/23 [ updated 2006/5/28 ]
バッハのフーガはなぜこんなに私たちを駆り立てるのか?
J.S.バッハが、彼に先立つ様々なもの・彼と同時代に存在する様々なものを「総合し」、膨大な数のフーガ/対位法作品を書くことで到達した地点とは何だったのか。
一般に、フーガ音楽には2つの規範が並行して存在するように見える。
一つ目は、「表出される心的ドラマを叙述する楽曲タイプ」。
二つ目は、「知的な計算を優先した、合理的世界観モデルの具現化としての楽曲タイプ」。
J.S.バッハは、この二つのタイプの差異を考慮せずにすんだ。なぜなら、
彼の(当時の)信仰は、人間的・心的要素と、神の創造による「世界」構造を体現する要素とを、公然と隔離することができなかったからだ。
むしろ両者の幸福な合一を示すためにバッハは書いた。
しかし今日、我々を魅了するのは、この音楽が体現する「幸福な合一」ではなく、「心を引き裂くような葛藤」なのではないか。
適度に学びさえすれば、おそらく、旋律線を整然と配置し、みごとな均衡を保ったフーガを書くことも、ロマン主義/表現主義ふうの怒涛の表出を伴った激しいフーガを書くことも、まったく難しいことではない。
しかしここにおいて、われわれは誰一人、バッハの作品がもたらす深甚な感動を再現することができない。
結局は技法も心象も、それ自体はおおきな価値を持たないのだ。
バッハの伝記が記録しているあの異常な勤勉ぶりを別としても、われわれに決定的に欠如しているものが明らかに存在するのだ。
絶望と、欲望。・・・