「父の名」完成
written 2010/1/15
腰痛がおさまったので一気に曲を完成させてしまった。
「断絶詩集」第2曲「父の名 Noms-du-Père」。
「父-の-名 Noms-du-Père」とはジャック・ラカンの術語で、私の解釈では、「ファルス(象徴的男根)」をめぐるエディプス状況のなかで「父」が象徴化され、現実的関連を失って超越的実体、シニフィアン(記号の表音的要素。意味内容から孤立した記号の側面)となったもので、これが病理をふくむランガージュの文節を構成してゆく。フロイト理論では、これが超自我となり、エディプス・コンプレックスの克服をとおして倫理的な「理性」を形成してゆくはずだ。
「Nom」は「名前 Nom」と「否定 Non」をかけた洒落でもあるらしいから、それは自己にとって、まずは「否定するもの」である。
この曲の歌詞では、必ずしもラカンにしばられず自由にイメージを発展させ、私自身の問題(「症例nt」)に適用した。前曲「強迫欲動」で言及される「はるか彼方のまなざし」は、たぶん「父」のまなざしであろう。
このイメージは(モーツァルトの)ドン・ジョヴァンニと重なる。放蕩をつくしたドン・ジョヴァンニは騎士長(実際は一女性の父なのだが)の像によって断罪され、悔いることさえできないままに地獄に堕ちる。どう見てもあの「騎士長」は禁止と審判を司る、復活した「父」イマーゴにほかならない。
楽曲内容はパイプオルガン、ヴォーカル(やはり初音ミク)、ループするドラム・マシンという、風変わりな編成をメインに据え、しかもヴォーカルはラップもどきだ。
中間部で主人公(きみ)は、父の否定を乗り越えて、主体的・知的な操作による構築=フーガの形成(=男性性の獲得、すなわち「父」と同一化すること)を試みるが、ここでは、フーガは成功しない。主題の性質がまったくフーガ向きでないからだが、結局、峻厳さではなく情緒的な側面にずるずると引きずり込まれてしまう。
そう、私にはフーガは書けない。いつもそれこそが問題だったのだ。
やがてパイプオルガンの威圧的な和音が、音楽の流れを寸断する。制止の命令の前に、わたしは立ち尽くす。この音塊が断絶 Hiatusをふちどる装置となるだろう。
さて「断絶詩集」、次は「完全にポップな曲」や「完全に現代音楽な曲」、はたまた「中世っぽい曲」を書きたいと思っており、あいかわらず「やらなければならないこと」が沢山あって焦るばかりだ。
だが実のところ、先日も書いたように目下精神的状態がよくないらしい。
現在の作曲行為をめぐっても自ら無数の「ねばならない」を招いてそれに取り囲まれてしまっており、まさにテレンバッハの言う「インクルデンツ Inkludenz」(封じ込められること)が当てはまる。
ということで、またしばし作曲を離れ、休息した方がよさそうだ。・・・自分がほんとうに心から「休める」かどうかというと、かなり心許ないのだが。