目の前の三重奏
written 2009/9/24
割と近場で、安くピアノ三重奏が聴けるクラシック・コンサートがあって、(出不精の私には珍しく)行ってみた。
3楽器以上の室内楽コンサートは、そういえば、初めてかも。
演目はハイドンとメンデルスゾーン。
私はチェリストのすぐ前に座っていた。その距離、せいぜい2メートル。思いっきり唾を吐けば届くかもしれないくらいの距離だ。
おかげで、チェロの音がずいぶん聞こえる。ヴァイオリンのラインよりもチェロのラインの方が、ずっと明確に聞こえてくる。
これは生演奏ならではの感覚だ。
私たちがクラシック音楽を受け取るとき、いつもはパッケージングされたCDという形態においてである。それは、「いちばんよい」音響バランスで録音調節されており、いったんパッケージ化されたそれは、いつどんな姿勢で聞き返そうが、いつも同じ音響しか提示しない。
だが、このパッケージ化された音楽というものは、ほんとうは、音楽の実態からはちょっと異質なものなのではないかという気がする。
もともと、音楽は野外で演奏され、歌われてきたものだろう。ちょっと場所を変えて聞けばずいぶん違って聞こえたろうし、それぞれの「音」はそんなにクリアでなく、絶え間なくノイズが介入してきた筈だ。ほんとうの、「生きた音楽」とは、そこにあるのではないかと思う。
インドの古典音楽のCDを聞いていると、ときどき、歌い手が途中で咳き込んだりする。ところが、こうした「ハプニング」に、歌い手も聴衆もまったく動じている気配がない。
近代以降の西洋クラシック音楽は、「音楽」を観念的に純化しようとし、合理化し、テクノロジーで満たそうとしてきた。この合理化運動が当然行き着いたのは「パッケージ」としての音楽だ。
さて、チェロのすぐ傍で聞くことで、やたらとハイドンが対位法的に聞こえた。見事な構造だ。これまで古典派以降はホモフォニー、と図式的に安易に考えてきたが、室内楽は必ずしもそうではない。いや、むしろ、室内楽とは、対位法なのだ。わざわざフーガを気取るまでもない。バッハふうにしないでも、すでに室内楽は対位法的なのであった。
ピアニストはどうもあまり上手でなかったので、私の注意はヴァイオリニストとチェリスト(主に、必然的にチェリスト)に向いた。
重音奏法など特殊な技など使わず、ほぼ単線で、無理な音域にはみ出なくても、じゅうぶんに多彩で生き生きとした音楽。
今ここから、私が作曲してきた作品をふりかえると、そこには致命的な欠陥が明確になる。
私の手法はあまりに無理をしており、不必要で、ばかげており、無意味なのだった。
そしてメンデルスゾーン。
この流麗な作品の作者が、実はきわめて精緻な、洗練された対位法の大家だということに、私は昔から気づいていた。各声部が、実に美しい。彼の、ピアノのためのフーガもとても美しい・洗練されたものだった。まったく、才能に満ちた作曲家である。私はシューマンはどうにも好きになれないが、メンデルスゾーンは、わりと好きだ。
今夜のピアノはダイナミクスの幅が狭く、クレッシェンド奏法がいまいちなのだったが、弦の二人はじゅうぶんに溌剌としていた。チェロの「朗々とした歌」は、やはりすばらしい。ちょっと全体的に強すぎたかもしれないが・・・。
クラシックである以上、この音楽もまた、西洋的な合理化の構造のなかにいるのだが、それでも、CDというパッケージに閉じ込められる「以前の」音楽ではある。生きた音楽。ピアニストがときどき音をはずす。だがそれは、止まってしまわない限り、大きな問題とはならない。フィギュアスケートの選手もたまに転倒するが、それでも高得点を出す場合がある。移ろいゆく一回的な「音楽」という大きな流れが充実して流れていくのなら、不意のアクシデントやノイズも、音楽そのものを破壊することはできないのだ。
私たちがふだん「CD」で聞いているのは、いったい何なのだろうか?
さらに言えば、私がやってきたようなDTMは、致命的なまでに機械的であって、真に音楽的な何かを最初から拒否してしまってはいないか?
そこに身を埋めずに、「音楽」を探すには、やはり自分自身がせめて楽器の演奏家でなければならないのだろうか?