オーケストラという肥満
written 2008/3/30
「スティール・ブルー」」が完成した。
「ソプラノとオーケストラのための」とあるが、このソプラノは必ずしも独唱をイメージしていない。数人による斉唱である。オケの方は逆に小編成のイメージ。今回は特に、19世紀末以降やたらドラマティックに多用されるようになった打楽器群を省き、ティンパニとトライアングルのみを残した。ハープも鍵盤楽器もない。
「残酷な小曲」の最後の3曲(ネウマ、オルガヌム、カンティガ)の骨格をオケに拡大したらどうなるか、という実験。しかしやはり、私にとってオーケストラは難しい、という印象を持った。
オーケストラこそはまさに近代西洋音楽の申し子であり、その「表現力」は西洋音楽の「知の権力」によって統制されたレトリック体系を、そのまま体現している。私が目指すサウンド像からみれば、どうしてもそれは「多彩すぎる」のだ。そんなふくよかさはいらない、骨だけでいいはずなのだ。
今作「スティール・ブルー」では、管楽器群の「かたさ」と弦楽器群の「やわらかさ」との対比効果が図られる。ほんとうは「ソプラノ」がさらに別の次元の領域を対置させるはずなのだが、私のソフト音源ではそこまで実現できないようである(弦楽器と同化してしまう)。
つねに他者を求める構築法は、複雑な対位法となり、ある種の気まぐれさともなる。
しかしどうも、オケというものは楽器数が多すぎる。ちょっとフガートを組もうとしただけで、延々と楽器が増えて行く感じになり、まとまりがつかない。もっとストラヴィンスキー的なストイックさをもって書くべきなのだろうが、たぶん私の心はまだ弱すぎるのだ。
冒頭から十二音主義流のモットーが呈示され、後続の(ソプラノによる)主題もそれに基づいているけれども、これはまったく十二音主義音楽ではない。ちょっとセリーを拝借した、といったところか。中身は「オルガヌム」等で確立した、即興的で非=構造的な構造体である。
ただ「残酷な小曲集」ではピアノによってなしえた素早い楽想の奔流が、ここではオケという多彩さにおぼれてしまい、滞りがちなようだ。
その点が最も失敗している部分で、この曲を「スナップショット」や「ル・ムーヴァン」からあまり遠く先には進んだように見えなくしてしまっている。
オケを使うにしても、もっと室内楽的な使い方に絞った方がいいのだろう。
さて次はどんな試みをするか。