ジョン・ケージ、記号の彼方の音楽
written 2008/3/13
音楽における記号表現的な部分について、私はこれまで拒否するだけではなく「あえて活用する」という手段をとってきた。そうしたスタンスは昨年書いた「Snapshots」にもよく現れている。
が、今は、そうではなくて、あらゆる「記号化」の誘惑を振り払いながら、断固としてその彼方を目指すのだ、という結論に達している。
一昨日久々にジョン・ケージ(John Cage, 1912-1992)のCD「The Seasons」を入手し、それ以来気に入って何度も聴き返している。
ケージというと、ピアニストがステージでひたすら沈黙する例の「4分33秒」とか、「偶然性の音楽」とか、そういう実験音楽的な先鋭さのイメージを持つ人も多いかもしれない。
けれども、私はケージの作品を多く知っているとは言えないものの知る限りでは、ふかい味わいを持つ、豊かで美しい作品が多いと思う。決して小手先の実験音楽企画者というだけではない。
もしかしたらケージこそは、音楽の「記号表現」を意識的に拒絶し、従来の語法を破壊しながらも、シンプルな「音楽そのもの」を求めていたのではないかと、このCDを聴いて考えた。つまり、私が行き着こうと思っていた場所は、意外にもジョン・ケージが立つ場所と近いのかもしれないのだ。
意味作用を少しずつ狂わせながら音楽そのものの力動を目覚めさせようという意識は、新古典主義時代以降のイーゴリ・ストラヴィンスキーにも通じている。
そしてその感触は、中世など、むしろ古い時代の音楽に近づいて行くのだと思う。
このCDに収められているのは、最晩年の「47 Seventy-Four」(1992)を除けば、初期のもの。
ながく引き延ばされた音が現れ、重なり、立ち消えてゆく「47」も面白いが、朴訥な風味がにじみ出している「四季 The Seasons」(1947)が好きだ。比較的古典的なたたずまいなので聴きやすく、このままいくと意味作用を強めてしまいそうになった瞬間、はぐらかし、記号性をつぶしてゆく。この経過がスリリングな作品だと感じる。
記号表現に参画した音楽は、現代ではコマーシャリズムやもろもろの言説に取り込まれてしまう。記号を殺し、音楽を生き返らせること。現代音楽にとって核心の課題は、すでにジョン・ケージによって示されていたと言っていいかもしれない。
私もケージの書法から、いくぶん学びたいと思っている。