Complex Source Code
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written 2020/2/11
人よりも口が回らず歌もド下手なのに、何故かいきなりラップに挑戦した曲。
基本が7/8拍子のためますます乗りにくく、考えた末ひらめいたのが、16分音符7個+16分休符1個、16分音符5個+16分休符1個とすることで、結果、日本の伝統的な「七-五調」になった。
ソースコードというコンピュータとか情報化社会に関する歌詞なのに、なぜゴータマ・ブッダが突然現れるかというと、そういう日本の伝統的な音韻がなんとなく古い仏教を連想させたからかもしれない。おまけにブッダが「円の外」にいるというのはどういう意味かと聞かれそうなので考えていたことを書き留めておくと、ソースコードの示す「(心的な)構造」の図絵をマンダラと見たとき、その中心には本当に神のごとき存在(如来)がいるのか、むしろ悟りを得たブッダは構造の中心どころか、その外側にいるはずではないか? とぼんやり空想したのである。
もともとクラシック派で、ただしオペラなどはあまり聴かないような人にありがちなように、自分も「歌詞」なるものに全然関心がなく、ポップソングを鑑賞していても、歌詞を全く認知せずにメロディーラインやサウンドなどに注意を向けている場合が多かった。これまで自作曲の中でボカロを使って歌わせた際も、デタラメな歌詞を適当に作ってみるだけだった。
しかし現在的で大衆性のある音楽のパロールを習得する試みとして、最近のポップソングをカラオケで練習してみると、実際のところ、ポップソング(やロック、もちろんヒップホップも)の領域では、歌詞すなわち言語的メッセージと音楽内容とが不可分に結びついているのであり、それらを別物として分離して考えるのは適切ではないということが明らかになる。
とりわけギターなどの楽器を演奏しつつ自ら歌い、作曲を進めてゆくシンガーソングライターやバンドマンの流儀こそが、ヨーロッパ中世の吟遊詩人にもつながる真のパロール音楽なのだ。それをラフで手軽なテクノロジーに乗せ、ある種のスタンスを示しつつ、多くの言葉を語るように詰め込むのがラップ系の音楽というふうに考えている。
クラシック特に現代音楽では「楽譜」があまりにも比重をかけられ、コンポジション=エクリチュールとしての音楽という側面だけが、しばしば頭でっかちに論じられているのは、とっくに大衆性の中に逃げ込んでいったパロール音楽と、凄まじい対比をなしている。それを欠落したままにしておくことは「偏り」以外の何ものでもないではないか?
そういうわけで、ボカロではなく自分でラップしたりちょこっと歌ってみることにより、音楽のパロール的な部分を引き込もうというのが、私の今回の企みだ。
ラップの場合、早口言葉の意味内容として、情報量がとても多くなるので、それを邪魔しないよう、バックの音楽はすこぶる単調な反復だけになっていたりする(もっともケンドリック・ラマーあたりを聴くと、もっとなかなか上質に音楽を構成しているようだ)が、そこはコンポーザー/エクリチュール音楽家としての自分はやりたくなかったので、いつものように(ほとんどルート音Dに固定しつつも)変化に富み、複雑性のテクスチュアというか、ジョルジュ・ルオーの超厚塗りの油彩画のようにサウンド塗りたくりのいつものスタイルを維持した。
さらに、「Existence Wheel」でやったような、ブロック単位での作曲法(今回もiPadのKORG Gadgetをメインに用いた)により、ゴダール的なコラージュを構成するような構造の再-配置の流儀を試みた。
したがって、やはりラップ音楽としても異常に情報量が多い印象になったと思う。それでも、ゴダールの映画ほどの情報の洪水にはなっていないだろう。
こんにち、スマホを絶えずいじりながら生きる人間たちは、凄まじい氾-情報アニミズムの大海に自我を分解しつつ漂っているかのようだ。
初めてラップしてみて自分の滑舌の悪さやリズム感の不確かさに目眩がしたが、歌の音程のひどさにはもっと絶望した。今回購入してみたWaves Tuneなど、ボーカルのピッチ補正プラグイン等を大活躍させたが、補正したトラックをバウンスするとサウンドにノイズが入り歪みまくったのは、私のiMacの処理能力がもはや時代遅れのロースペック過ぎたせいかもしれない。ちょっと裏技を使って録音した。
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