item 死の傍らを逡巡して

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written 2017/12/30

 10月末ころに職場で同室の女性とトラブルがあって、彼女は自分で自分の心理を恐らくはきちんと把握できないままに(従って私には極めて理不尽に見える)怒りを爆発させ、私の人格やコミュニケーション手法を完全否定したのだった。それは私に大きな怒りをもたらすと共に、間もなくかつてないほどの希死念慮に取り憑かれたのだった。
 相手への「怒り(憎しみ)」が半日も沸き上がったかと思うと、不意にそれは反転して、自らが死にたい欲動に沈んでいく。これが繰り返され、ヤバいなと思って、2006年以来服用している抗うつ剤を大量に(いつもの3〜5倍くらい)飲みまくり、仕事中に強烈に眠気に襲われた。
 ことの発端が2006年の事件に酷似しているため、自分でも危機感に駆られ事件後翌日に心療内科に行ったところ、「人生がどうでもよくなる薬」という新しいのを処方された。といってもこれはそんなに強い薬ではないようで、大量に飲まないと効いて来ない気がした。これを飲めば確かに、ひとつの執着的情動からちょっと離れられるようだが、それでも意識は内にこもってきて、いつでも死んで良いような気がするのだ。
 11月、12月とこの状況が続き、薬のせいもあって仕事も、家での読書や作曲やネットへの書き込みなど、一切合切がやる気の起きない状態になり、休みの日には日をどう過ごして良いかわからないことが辛く、延々と昼寝ばかりした(薬のお陰で良く眠れるのである。薬がないと眠りが浅くなる)。これは完全に2006年よりもはるかに悪い状態だ。
 スヴャトスラフ・リヒテルは「うつ期」になると何ヶ月ものあいだ、ひたすらずっと寝続けたそうだが、そうした状態というのを、今回やっと理解することができた。
 私はあらゆる自殺の方法を調べなおし、ナイフか何かで頸動脈を切るのは結構難しいらしいと知ると、確実に飛び降りて死ねて、他人への迷惑が最低限となるだろう場所を探した。その「確実な場所」は最終的にここだ、というのを決めたが、そこまで車で1時間くらいかかるので、それがどうにも面倒な気がした。
 私が音楽-ネット関係で携わっているいくつかのプロジェクトに関しては、残念ながら完遂できないことになるので、自分が死んだらどこそこにメールで連絡してくれ、あとこの口座はこうで、これを解約しなくてはならなくて・・・という、家族宛のメモ的な「遺書」もちゃんと整備した。いつ衝動的にその日が来るかわからなかったからだ。

 某ピアニストさんから委嘱いただいたピアノ曲を、こんな状況でなんとか完成できたのは奇跡的だった。自分でも何故作曲できたのかわからない。

 外国のホラー/サスペンス映画など見ていると、どうして主人公たちはこんなに「生き続けようと頑張る」のか理解できないものがある。大災厄で家族や友人がみんな死んでしまって、自分も99%死ぬだろうという状況に陥っても、まだ「必死に生きようとしている」のが不思議だ。
 日本人、というか日本文化はいまだに、「死」と親近性がある。日本的な「死」は、欧米的なそれよりもはるかに自然なものであって、「自殺=自分を殺す=kill oneself」というよりも「自死=go to be dead」という言葉の方が、しっくり来る。
 
 自分が世界において無価値で無意義であり、なにもうまく行かず、自分が価値あるとおもったもの(たとえば自分の音楽とか、生き方とか、しゃべる内容とか)は他者たちには受け入れてもらえず、そして胸かきむしるようなトラブルや重圧が襲われるなら、「自死」がとにかく、ありとあらゆることを解決し、解放してくれる無敵の手段なのだ。
 世界とは自分のことなのだとウィトゲンシュタインも書いていたようだ。自分の終わりとは、世界の終わりということだ。
 娘は動揺するだろう。しかし彼女も17歳になり、今ならなんとか耐えて、乗り越えて生きていけるのではないだろうか。

「なんにもできない、意欲がわかない」といった状況の中で、最も救われたのは、札幌に行ってポップ系シンガーさんたちのライブを聴くことだった。この3ヶ月で3回くらい行った。こればかりは、不思議なまでに、能動的な行動を取ることが出来たし、ライブのあいだ楽しむことが出来た。そして嬉しいのは、シンガーさんたちが、私が聴きに来たことを(不特定多数の一人としてなのだが)本当に喜んでくれることだった。
 ここでは、私は自分の特異な音楽的趣味を発揮して誰かにおしつける必要もなく、ただ受身で聴いて、「なんか良いなあ」と感心して、彼女らの綺麗な歌声に拍手を送るだけで良いのだ。そうすると、私という存在を彼女らは喜んでくれて、その喜んでくれることを私は喜ぶのだ。
 若い彼女たち・彼らの純朴な音楽や、ちょっと緊張したような、でもじゅうぶんにサービス精神とユーモアのあるトークが、向こう岸に見事に咲く花のように私にはありがたいのだった。
 とはいえ、札幌行きはカネもかかるので、そんなにしょっちゅう行けないし、朝早くから仕事があるから平日夜のライブに行くのはちょっと厳しい。
 次は1月6日に札幌に行く予定だ。

 ところでどうしてこんなに今「書ける」のかというと、目下年末の休みに入って、昨日くらいからかなり快癒した状態にあるからだ。ここに至る以前は全く書けなかった。職場を離れることで、当面最大のストレスが遠のいたおかげである。だから年が明け再び職場に戻ったときには、また悪化するのかもしれない。
 調子が良くなった今のうちに、作曲とか読書もしている。
 今作っているのは、新たに導入したボーカロイド巡音ルカV4を使った、変拍子・転調・無調を含むアバンギャルドなHR/HM系の音楽である。まだ本当に作りかけの状態だが、途中経過として今日アップロードしておいた。完成までにはまだまだかかると思われたので。
http://www.signes.jp/musique/test/Reverse.mp3


 実は陰のストレス要因として妻のことは書かずに来た。しかしこの2ヶ月のあいだも、なんどか本気で離婚しようと思った。彼女との結婚(当時いくつか選択肢があったのに、私は最悪のものを選んでしまった)によって私の人生は誤った方向にくるっていったと考えているし、私の人格も苛つきやすく、ときには他者に攻撃的になるような面が出てくるように変わってしまったと思う。とにかく、彼女は日々人にストレスをもたらす人間なのだ。家でのストレスをできるだけ避けるために、私はほとんどずっと自室に引きこもっているわけだ。

 よくわからない絶対他者としての「女性」をめぐって、私はいつも波乱に見舞われ、失敗している。一般の男性とおなじように、私は女性に優しさや柔らかさ、歓待を期待するのだが、彼女たちの一部?は、あるとき突然怒りだして憎しみに満ちた否定をぶつけてくるのだ。
 否定されることで、私は動けなくなる。
 フロイトが何気なく書き付けた「愛されないという罰」が、かくして私を深淵に突き落とす。これは「私の書く音楽が、人々に愛されないということ」とも関係している。人格面と、作曲という行動面との両面に、愛さないという攻撃が降り注がれる。
 だからいったんすべてを(世界を)reverseし、解消するためには、「死」が最高の解決策であり、そのために私はこの2ヶ月間ぐるぐるとそのへんをうろついてきた。

 まあ、すくなくとも休暇中の現在は大丈夫な状態と思う。

 最近気に入ってよく聴いているのは、鬼束ちひろさんの「月光」という曲だ。本当にいい歌詞だし、名曲だと思う。

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