ストレッサーとしての「現代音楽」
written 2008/11/11
妄想物語「あわい」シリーズ、本当はもっとグロくてヤバいシーンを幾つか考えていたのだが、適当にケリをつけてしまった。
今また作曲を(今度は軽くピアノ小曲を)書こうとしているのだが、いまひとつ進捗しない。「あわい」の中で書いたように、恐怖心だの自信喪失だののせいで、ちょっと「書けなく」なっているのかもしれないし、あるいは、本当に私は私を去勢してしまったのかもしれない。
コンクールに応募したあとになって、ようやく「現代日本音楽」のCDをもうちょっと買い集めるようになり(と言っても、高価なのでまだそんなに多くは持ってない)、「現代音楽」らしい響きに日々耽溺してしまうと、なんとなく脱力し、自分の好きな音楽というのはなんだったのかなという迷いにとらわれる。
やはり日本人の作品には、「すごく好き」と思えるものは、残念ながらあまりない。最近いたく気に入っているのはドイツの大家、ヴォルフガング・リーム Wolfgang Rihm (1952- )だ。初期の作風はいわゆる表現主義ふうで激しいのだが、20世紀末あたりから近年の作品は調性的な要素も強くなり、比較的穏やかな、落ち着いた雰囲気だ。しばしば、非常に美しくなる。
現代日本の作曲家の作品もうまいなとか、あ、おもしろいな、とか思ったりするけれども、以前から好きな武満徹や三善晃さんあたりを除けばさほど惹き付けられるものがない。というわけで私の感性はもはやどうやっても日本の楽壇に馴染むことはないのかもしれない。
それよりもリームの音楽の方が私にはおもしろい。最も感動したのは「クラリネット五重奏の4つの研究(?) Vier Studien zu einem Klarinettenquintett」(2002)だ。現代的な鋭さと超越的な美しさが体現された、これは100年後にはモーツァルトやブラームスのクラリネット五重奏曲と並べて語られるのではないかとさえ個人的に考えているほどの傑作なのだが、残念ながらAmazonでも目下入手不可になっているようだ(MINGUET QUARTETT)。
しかし(完全な)無調音楽というものは、本来、生理的に苦痛にあふれたものであるという事実を決して忘れてはいけない。
私の体験でも、いわゆる現代音楽をずっとかけながら自動車を運転していると、しまいにイライラしてくるのである。
運転中でなく、真剣に聴いているのなら、それらも非常に面白いものである。私はフェルドマンも、ケージも、リゲティも、シュトックハウゼンも、みんな面白いと思って聴いている。しかし、私が特に好きな武満徹やメシアン等ですら、BGMとして精神に作用してくるのは「ストレス」の方が強いようだ。
人間の生理はきっと「完全な無調」には向いていないのだろう。
「無調」というのは、「調性システム」という、西洋流の人工的自然に対立して作られたものだが、対立しているがゆえに、西洋音楽の範疇を一歩も出るものではない。無調もまた、人工的な自然に過ぎない。それは調性音楽のダークサイドみたいなものだ。表があるから裏がある。調性音楽なき所には無調音楽もありえないのだ。
根源的な人間の音楽は、ほんとうは、そういった作為や図式を超えて存在し続けるはずだ。
いつまでも。
さていわゆる「現代音楽」の集中的な聴き過ぎのためか(ということにしておくが)、どうも調子が悪い。
作曲に気分が乗らないだけでなく、なにをやってもおもしろくない。集中せず、意欲も無く、興味もわかない。
この感じ(やる気のなさ)は2年前の「うつ病」と似た感じなのだが、私は実は今でも薬を飲んでいる。
数日間薬を飲まないでいると、ひどいめまいがしてきて、歩いていて倒れそうになる。運転しながら気が遠くなりそうになる。
それは服薬にたよることで脳内物質のバランスが調整されていたのに、急に絶とうとしてバランスを崩してしまう、という事態ではないかと思うのだが、医者によると「いや、それはストレスのせいで起こる神経障害だ」という。
そういうわけで未だに薬はやめられない。まあ、自分では病気とは思っていないし、重く受け止めていないのだが、あのめまいには困るのだ。
年内にはコンクールの「落選通知」を受け取り、かたどおりに失望・絶望し、敗北感により再帰不能な状態にまで落ち込む予定なので、そのまえに1曲書き上げたいなという思いがあったが、果たして完成するかどうか。